スマイル・マジック(千+伊佐)
千条が手のひらをテーブルの上に滑らせると、五十三枚のトランプが完璧な均等さで弧を描いた。赤と黒の表面を晒すカードの中で、一枚だけが裏を向いている――と思う間もなく千条の指先が、およそ非効率とはほど遠い手際でその裏返しのカードをすいと抜き取った。
「君の選んだカードはこれだっただろう? どうだろう、驚いたかな」
「………………驚いたがな」
顔の前に突きつけられたハートのエースに、伊佐はため息混じりに頷いた。
ロボット探偵から期間限定のロボット奇術師へと仕込み直された千条のカードマジックは、無論正確無比の出来栄えだった。なにしろ千条は「どう考えても動作の正確性や集中力があって優秀で、手先の器用さも比較にならない」のだ。彼の桁外れた処理能力を誇る思考回路と、精密機械のような指先にかかれば、繊細と修練を要するマジックですらもせいぜいが靴紐を蝶結びにする程度の手間でしかないらしかった。先程から淡々と披露されているカードマジックのオンパレードも、本番に向けた練習というような類のものではなく、伊佐に対するただの報告のつもりなのだろう。千条は伊佐の目の前に突き出してみせたトランプを無造作にビリビリと破いて紙片を握り込むと、伊佐の胸元を指差した。視線を下げれば伊佐のシャツの胸ポケットに、破かれたはずのハートの一が入っている。視線を戻すと、千条は角度を測ったような首の傾げ方をしていた。
「驚いているようには見えないけれど。タネがわかっていたのかい?」
「…………いいや、まったくわからないよ」
ゆるく首を振り、伊佐は胸ポケットからいつから入っていたのかまったくわからないそのカードを取り出した。指を滑らせ弾いてみたが、ハートの一は勿論、破かれた形跡もない。パーフェクトだ。
とはいえ。
千条のカードマジックは、見積もって三秒、下手したら一秒かからない。手捌きがとんでもないのだ。目にも止まらぬ速さで(本当に目にも止まらない)カードは切り終えられ、配られ、提示され、瞬きが終わらぬ間に目の前にカードを突きつけられている。何が起こっていたのかわからないまま気づいたら終わっている。ジェットコースターのような千条のマジックに、伊佐は正直驚きではなく困惑をし続けている。
ふむ、と千条が頷いた。
「やり方は、これで合っているはずなんだけど。なんだか上手くいっていないようだね。何が悪いんだろう?」
不思議そうな台詞なのだが、声と表情は平静極まりない。伊佐はもう一度ため息を吐いた。
「ウーダン鑑定人は、おまえのマジックについて何て言ってたんだ?」
「ぼくのマジック、という言い方は正確じゃないね。ぼくはウーダン鑑定士の指示通りに動くだけだから。マジシャンではなく、マジシャンの使う小道具の役割だね。まあ、そういうわけだから、彼はぼくのマジックに対して特にコメントはしなかったけど」
「なるほどな……」
つまり観客の反応を千条が全く慮ることが出来なくとも、今の伊佐のようにマジックから振り落とす心配は、少なくとも本番ではないわけだ。伊佐はそれだけ確かめると肩を竦めた。
「そうだな。笑顔くらいはつくっておいた方がいいんじゃないのか、やっぱり。大勢の前に出るんだから」
「そうなのかい? でも、笑顔って言っても色々あるからね。サンプルがないと、ぼくにはなんとも。どんな風に笑えばいいんだい」
「色々いただろう? マジシャンは。マジシャンでなくてもいいが……」
「例えば?」
「そうだな、例えば……」
インフィニティ柿生。ウーダン鑑定士。伊佐は少し首を振る。スイヒン素子……の笑顔は見ていない。ソーントン。柿生信二。釘斗博士がニヤニヤとした笑いを浮かべてなにやら口を開きかけたので、伊佐は頭の中から追い出す。どうして俺の周りにはこういう奴らしかいないんだ? と伊佐は少しめげそうになる。
「…………種木少年だ! 彼の笑顔なら、大抵の人には反感を持たれにくいんじゃないか」
「種木悠兎くんかい。なるほど……」
顎に手を当てる、考え込むような尤もらしいポーズは、要はロード中の静止画面のような役割だったらしい。記憶回線から映像を引っ張り出す読み込み処理が終わったのか、千条が顔を上げてうん、と頷いた。
「どうだい、再現できているかな」
「…………悪かった。おまえには似合わなかった」
「そうだろうか」
千条がすっと真顔に戻る。伊佐は頭痛を感じて眉間に手を当て俯いた。
「ぼくは思うんだけどね伊佐」
「…………なんだ?」
「君の笑顔を真似したらいいんじゃないかな、ぼくは」
「なんで俺の笑顔なんだ。おまえに真似されるような大層なものじゃないぞ。種木少年みたいに屈託ない顔でにこにこ出来ないし」
「ああ、そこだよ伊佐。君は作り笑いとかしないだろう?」
「……無愛想で悪かったな」
「そういうことじゃないよ」
むすりとして千条を見れば、相変わらずの透明な視線がまっすぐに伊佐に向いていた。
「笑顔を向けられても不快に思うことがあるというのは、それが本心からの表情ではないことを感じているからなんじゃないのかな。ぼくにはその判断が出来るほど笑顔のデータが取れた相手はいないから、なんとも言いようがないんだけれど。でも少なくとも君の表情に関してであれば、社交辞令のような変化はほぼ起こらない、ということを結論としてもいい頃合いだ。ならば、ぼくの持つデータの中では最も本心と表情に齟齬のない、君の笑顔をロールモデルとするのが、他者に向ける笑顔としては一番適切なんじゃないかな」
ぽかん、と数拍分の空白。手に持ったままだったトランプがふと視界に入る。白いカードに乗った赤いハートマーク。カードの表面をしばし見つめ――くっ、と小さく声が漏れた。
「なんだそれ」
そう返した伊佐へ、千条がぱちりと視線を向けた。一つ頷き、ポーカーフェイスの口が開く。
「ああ、伊佐――そうだよ。その顔だ。それがきっと、まさしく「笑顔」なんだろうね。だけど、ふむ、なんていうか――」
顎に手を当てる、尤もらしく考えるようなポーズ。ロード画面の静止画は、やがてサンプルを取り込んで表情を変える。
「確かにこの表情は、不特定多数の人に向ける表情としては適切ではないようだね。せっかくだけど、この表情を使うのはまたの機会にすることにするよ」
恐らく完璧に複製した、伊佐と同じその苦笑に。今がまさしくその「適切な機会」なんだと教えるべきか逡巡しかけて、伊佐は堪え切れずに笑い声を上げた。
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