パレイドリア(雪之条+八房)
「そういえば、あれの名前も決めておかないか」
新しく増えた魍魎の種の名を紙に記したとき、ふと思い付いてそう提案したのは八房の方だった。魍魎屋というものになって、魍魎を相手に名前を付けて知るものと知らないものを分けることにも最早慣れていた頃だ。ぱちりとひとつ瞬きをしてこちらに視線を向けた雪之条の顔を見て、ああまた言葉が足りない、と思った。小言を飛ばされる前にと慌てて言葉を継ごうとしたけれど間に合わずに、雪之条が口を開いてしまった。
「僕らが食った魍魎の話かい」
あっさりと言葉の続きを読まれてしまい、お前がこうだから俺の言葉が足りなくなったんじゃないのか、とやや八つ当たり気味に思う。もちろん非はこちらにあるから本当に八つ当たりをするわけにはいかないし、どうせこちらをからかう為だけに浮かべるにやにやとした顔と一緒に倍にして言い返されるに違いないので、八房は少し不服な気持ちのままで仕方なく頷くことにした。
「ああ」
「あれならもう決めてるよ」
「え?」
「双魚にした」
「双魚……」
いつの間に、とか俺にも考えさせてくれれば、とかいった不平を言う前に、うっかりその名前に気を引かれてしまって文句を言い逃した。海にいたから、だろうか。でもそれにしては漠然としすぎていないか。八房は今しがた書いたばかりの五回目の恋という文字に目を落とした。よくもこういう名前を思いつく、と思わず感心したやつだ。
雪之条が付ける名前は用途がわかりやすくてしかも妙に洒落ている気がする、と八房は常々思っているのだけど、今回のものはこの男が付けたにしては少々味気ないような(ちなみに八房の付ける魍魎の名前は八割がたからかわれていて、一割は真面目に却下され、最後の一割はごく稀だけれど褒めてもらえる)。雪之条はどうしてこんな名前にしたのだろう? 名付けの真意を今ひとつ飲み込めず、けれど雪之条の方はいたく自信ありげな顔なのでますます腑に落ちなくて首を傾げれば、やはり何が言いたいのか先回りできるらしい雪之条は、こちらを見てさも愉快げに笑った。
「八房に贈り物を買ったんだぜ」と、誕生日前に明かしてきたときと同じ顔だった。とっておきの宝物を見せるような笑い方。いつかを一人で先取りして何もわからないこちらにほんの少しだけ耳打ちし、残りは全部仕舞い込んで「それは後のお楽しみ」と言いたげに笑う、ユキと違って察するのが下手な、自分を焦れさせるいつものやり口で。
「当ててみてよ、やっちゃん」
きっと気に入るからさ、と言った雪之条があんまり嬉しそうに笑うので、そのとっておきをすぐには教えてもらえないことが悔しくて、しかしそれを知られるのも腹立たしいので黙り込んだら、雪之条はおかしくて堪らないとでもいった様子でくつくつと喉を鳴らした。
*
ずっとどうでもいいことばかりを思い出している。
長い長い記憶が後から後から泡のように浮かんでは消えてを繰り返していて、その一つ一つに気を取られるからそれらを思い出すことは都合が良かった。紙を捲るようにぱらぱらと短い記憶を手繰り寄せては、摘まみ食いのように一口齧ってページを飛ばす。主題も脈絡も取り払った、音のない雑音のような記憶たち。頼むから鳴り止まないでくれと白い地面を踏みながら思った。
雪之条を殺した。
波の音が聴こえている。いいや気のせいか。ここはどこだろう。もうずっと歩き続けている気がするが。
雪之条を殺した。
そうだ、と切り捨てるように思う。雪之条を殺した。俺が殺した。俺が。唯一無二の親友を。ユキを。俺がこの手で引き裂いた。
雪之条を殺したのだ。
頭の中にがんがんと釘を打っている。殺した。殺した。殺した。どうせそこから目を逸らせないのならば、せめてそれだけを考えていたいのに。
砂嵐のような記憶の雑音と、がなり立てる事実の混濁で、思考のすべてを埋め尽くそうとしても一番掻き消したい感情が纏わりついて離れない。
「……、っ……」
一緒にいたい。一緒にいたい。一緒にいたい、のに、どうして、
心臓の一番深いところがまだ引き攣れたような悲鳴を上げている。置いていかれたくないと叫ぶ脆い部分が、そうすれば手を繋ぎ直せると思って泣き喚いている。だけど。
「――――、っ……あ、あ」
だけどそれでも。
それでも、どうしても、どんなに一緒にいたいと俺が願っていたとしても。
あの死なない弟子を作ったように、人間の傍にいることよりも魍魎を手元に置くことを選んだように、雪之条がそれでも構わないと笑うのだとしても。
いつかの最後の行く末に。きっと死ぬことを取り戻せずに。お前に人間を切り捨てさせてまで選んだ道連れの辿り着く先が、ここで魍魎と成り果てるだけの終わりになるならば――
ああ、そうか、と。その答えは今更わかった。きっと気に入るからさ、と得意げに笑った声が蘇って堪え切れずに笑ってしまったのは、八房の考えなど全てお見通しだとでも言いそうな顔でもったいぶっていたくせに、蓋を開ければ思い切り的外れだったことがひどくおかしかったせいだった。全然わかってないだろうがと、かすれた呼吸の中で毒づく。なんて、なんて間の悪い。呆れと腹立たしさとおかしさがないまぜになってくつくつとどうしようもなく喉が震え、それはなかなか収まらなくて、なんだか嗚咽のように聞こえた。
「二人だったから、双魚にしたんだな……」
俺じゃなくて。魍魎になっても俺と一緒にいるなんて約束じゃなくて、それよりも。
ユキが人でいることを望んでくれるなら。
置いていってくれて構わなかったと――どうか、
どうかそう思わせてくれよと。
そう願いたいと思うこの望みだけは、どうにか叶う気がした。
【双魚】
二匹の魚。
(想い合う相手からの手紙が二匹の魚の腹から出てきたという故事から)手紙。
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