第一節 でびる屋と悪魔のずれ

 一般的な悪魔の理解は、絶対悪であると見るか、相対悪であると見るかに分けられる。すなわち悪魔を神、もしくは人間の絶対的な敵対者であるとするか、見方を変えると悪魔は善にもなりうる存在なのだとみなすか、ということだ。最たる例として、「明けの明星」「光を掲げる者」「光の運び手」という名を持つ悪魔、ルシファーが挙げられるだろう。絶対悪であるとして見れば、この悪魔は神に叛逆した罪で地獄へ堕とされた存在になり、相対悪であるとして見れば、ルシファーは人間に「知恵の光」をもたらすため、天から降りた存在となる。
 「私と悪魔の一〇〇の問答」の作品内世界における「でびる屋」は、相対的な悪として評価、もしくは非難をされている。「新たな進歩と、責任の委譲」を依頼者から同時に求められるでびる屋は、「みんなを騙」すという悪を行うことで、膠着した状況を打開し、「新しい展開」へと繋げていくトリックスターのような存在だと捉えられているのだ。「新たな進歩と、責任の委譲」、「派手にぶち壊すことが、新しい展開に繋がっている」。でびる屋の行為に内包される二面性が、シンプルハートが彼の依頼者たちから「でびる屋」、つまりは悪魔と名付けられた理由である。
 しかし、この一般的な悪魔観を下敷きとした作品内世界におけるでびる屋への印象は、シャーマン・シンプルハートの定義する「悪魔」、でびる屋としての彼が依頼者に働きかける行為とはずれがあるようだ。でびる屋に対するイメージと実体が噛み合っていないのである。
 そのため第一節では、「私と悪魔の一〇〇の問答」という作品においての「悪魔」の定義を再検討し、一般的な悪魔像とのでびる屋のずれを修正した上で、でびる屋という仕事の実体を明らかにしていく。

「悪魔の仕業としか思えないような不条理が、神さまのことを信じていても全然消えないからだ。つまり神さまだけでは世界の構造を説明できなかったんだ」〔略〕/「じゃあ悪魔ってなによ」/「だから、それ以外、だ。神という理屈、世界という論理から外れたものが悪魔なんだ。辻褄が合わないこと、神が罰を与えるはずの状況でも平気でいるヤツがいる、そんな馬鹿なことはない、これは悪魔の仕業だ、という風にな」[1]

 これがシャーマン・シンプルハートによる「悪魔」の定義である。シンプルハートの定義に依拠するならば、悪魔とは与えられるべき罰を、人間から回避させる存在を指しているということになる。対して、シンプルハートが行なっているでびる屋もまた、与えられるべき罰を人間から回避させる存在だ。でびる屋は、他人の期待に答えられなくなった人間から依頼を受け、依頼人自身が取るべき責任を代わりに引き受けることで、責任の所在を誤魔化しうやむやにする。その人間に与えられるべき罰、取らされるべき責任を回避させているという点で、でびる屋の行為と悪魔の行為は同質のものとなる。
 シンプルハートはこの作品の中で「悪魔」という役割に当て嵌められ、それは彼の行うでびる屋という仕事に由来することは間違いない。だが、それは「新たな進歩と、責任の委譲」という評価やトリックスター的な二面性、「罪悪を相対化して」いる行為といった、作品内世界の依頼者、敵対者に共有される「でびる屋」という仕事に対するイメージによるものではなく、でびる屋が依頼者の取るべき責任を誤魔化し回避させているというの一点においてのみなのだ。
 でびる屋に寄せられる依頼が「新しい進歩と、責任の委譲」であることを明かすシンプルハートに、紅葉は「まとまるもんなの、それって」と否定的な意見を述べ、シンプルハートはこの紅葉の指摘を「一緒くたにできねーよな?」と肯定する。でびる屋という仕事はその正式名称を「ディプログレッシヴ業者」というが、進歩を意味する「progressive」に否定を意味する「de-」という接頭辞を付けたディプログレッシヴというこの造語は、訳せば「新たな進歩」という言葉とは真逆の意味になるだろう。シンプルハートは自身の仕事を「新たな進歩」に繋がるものだとは考えていない。
 これが、作品内世界で一般的に認識される「でびる屋」と、シンプルハートの定義する「悪魔」としての「でびる屋」の認識のずれである。作品内世界で認識されるでびる屋は、依頼者に「新たな進歩と、責任の委譲」を保証する存在だとみなされるが、シンプルハート自身が評価するでびる屋とは、「責任の委譲」を引き受けることしかできない存在なのだ。

【注】
[1]テクスト(p.11 L11~p.12 L15)より引用。

0コメント

  • 1000 / 1000