第二節 理想と現実の間

 でびる屋の仕事は「責任の委譲」をされること、すなわち依頼者の責任を引き受けることだ。
 留意すべき点はでびる屋の責任を引き受け方である。でびる屋は引き受けた「責任」に対して、「責任を果たす」ことも、「責任を取る」ことも無い。彼に委託された責任はその所在をうやむやにされ、誰かに責任を果たされることも誰かが責任を取らされることもなく宙吊りにされる。故にでびる屋への依頼とは、責任を引き受けてもらうというよりもでびる屋に「責任を誤魔化してもらう」「責任をもみ消してもらう」という方がより正確な意味になるだろう。
 「責任」は、その本質的な意味とは呼びかけられることに対して「応答をすること」である。大庭健は、「責任」を「呼応可能」な間柄において発生するものであると述べる。

このように、「責任のある(リスポンシブル)」ということの根幹は、「呼応可能」な、すなわち共通の生活の文法のもとで、ミニマムな信頼が可能な間柄である。したがって、「責任」という概念は、日々の語感からすると奇矯に響くかもしれないが、第一次的には、人の間にかかわる。「責任がある/を負う」というのは、第一次的には、人間関係の特質なのであって、特定の諸個人の属性や態度ではない。「責任」とは、第一次的には、特定の個人に賦課される義務なのではない。「責任」という名の義務が、特定の諸個人に配分され、その履行をめぐって問責し弁明する間柄が生成する、というのではない。ミニマムな信頼にもとづいて呼びかけ・応じていける間柄。こうした間柄が、責任ある人の間なのである。[1]

 ここで指摘されるのは、「呼応可能」な間柄とは、「信頼が可能な間柄」であるということだ。責任とは本質的に、お互いがお互いを信頼している人間同士の間でしか発生しない。
 この責任と信頼の関係を、大庭は「自分に向けられている予期を予期し」、その予期に叶う応答を返すことであると定義する。

特別の事情のないかぎり、自分に向けられている予期を予期したなら、それに真っ向から背く応答は、私もしないし、相手もしない。私たちの日々の生活は、このことへの信頼のうえに成り立っている。〔略〕相手が、どう受けとめるのか、どう受けとめて・どう応答してくるのか。それは、あくまで不確定である。にもかかわらず、私たちは、通常は、そうした未来の不確定性に悩むことなく、相手に向かって「おはよう」と語ることができる。〔略〕相手の予期を予期しえたなら、特別の事情がないかぎり「予期せぬ応答」をしない。〔略〕こうしたミニマムな信頼関係は、呼応が可能なための、したがって「責任」という概念が意味をもちうるための根本的な条件である。繰り返せば、そもそも、信じるとは、まだ起こっていないことを、起こるであろうと先取りし、それを当てにして、こちらから一歩を踏み出すことである。言い換えれば、信頼とは、自分に向けられた期待を裏切ることが可能なときでも、裏切らないし、相手もまたそうである、と互いに信じることに他ならない。[2]

 大庭は、「責任」の根本的な条件を「自分に向けられた期待を裏切ることが可能なときでも、裏切らないし、相手もまたそうである、と互いに信じる」信頼であると述べる。すなわち「責任」とは、他人に期待され、また期待することで発生する概念なのだ。「期待」がないのならば「責任」は存在しない。そしてこの「信頼」は特別なものではなく、「人の間」、つまりは「日々の生活」を「成り立」たせている、ごく当たり前に存在する「信頼」だ。
 「責任を誤魔化してもらう」「責任をもみ消してもらう」というでびる屋への依頼に立ち返ろう。依頼者は、「期待」によって発生した「責任」に応じられなくなり、でびる屋に依頼をする。この責任と期待の関係についてシンプルハートが自覚的であることは、紅葉との対話の場面から示すことができる。

「でびる屋ってさ―たとえば、うちのママからお金とか、もらってんの?」/「んん?」/「いや、だからさ―要するにアレでしょ、ヤバげな人たちを、さらにヤバい方法で強引に救済する訳でしょ。でもそれって、金に困ってるヤツからしか依頼を受けないってことで、危険の割にはあんまり実入りがないんじゃないの?」〔略〕/「自分にとって決して楽しいことじゃないのに、君はみんなの期待に応じないといけなくなる。それはどうしてだろうな? いや、もちろん君がそれほどの器じゃなくて、耐えきれずに放り出して逃げることもあるが、その場合は前よりも遥かに悲惨な状況になる。そう、ちょっと前の君の親のような立場に落ちる。この〝流れ〟から君は決して逃れられない。困ったもんだと思わないか?」[3]

 でびる屋は、他人の期待に答えられなくなった人間から依頼を受け、責任の所在を誤魔化しうやむやにする存在だ。
 シンプルハートは「他人に期待されている自分として失格」という自己認識は、「人間失格」だと思い込むことに繋がっていくと指摘する。期待に答えられなくなった人間は人間失格とみなされる、という彼の定義に則るならば、でびる屋の仕事とは「他人に期待されている自分として失格」と思っている人間の「失格」の原因、その人間が他人からの期待に答えられなくなってしまった原因を誤魔化しによって解消する行為であり、すなわちそれは「人間失格」になりかけている「失格」の原因を取り除く行為となる。
 「世界」を「人間」と捉え、でびる屋という仕事を「世界を背負って」いると形容する彼は、「責任を誤魔化す」ことを人間の失格者を出さない行為なのだと捉えていると言えるだろう。でびる屋が担う仕事とは、突き詰めれば人間の失格者を出さないことなのである。
 だが、ここでシンプルハートのでびる屋という行為と、シンプルハート自身の目的に矛盾が生じる。
 シンプルハートが紅葉との対話で目的とするのは、人間の「新たな未来」の、その鍵となる答えを引き出すことだ。しかしそれに対して、でびる屋という仕事はその目的とは真逆の行為である。
 彼の仕事は依頼者の責任を誤魔化すことであって、依頼人に「新たな進歩」をさせることではない。でびる屋であるシンプルハートに可能なのは、人間を人間から失格させないようにするという、人間という存在の現状を維持することであって、「新たな進歩」、すなわち「新たな未来」に人間を導くことはできない。

「どういうことよ。進歩ってのは、自分でやるもんじゃないの? 責任を移したら、それはもう進歩って言えないじゃない」[4]

 この紅葉の指摘を踏まえて述べるならば、進歩と責任は切り離せない概念だ。
 それにも関わらず、依頼者の責任を淡々と排除してしまうシンプルハートの行為は、彼の目的とする人間の「新たな進歩」「新たな未来」を阻害する矛盾した行為でもあるのである。

「それじゃあんたは、悪魔ってことになるんじゃないの?」/「名前もハズレ君だし、か?」/「そういうこじつけはどーでもいいけど……自分が悪魔みたいな方向に行ってる、って思って、それであんたは平気なの? 嫌な気分にならない?」/「嫌な気分なら、今までさんざん味わってきたよ。いくらでもな」/「……そうなの?」[5]

 「でびる屋」の仕事をすることや、でびる屋の仕事をするように命じる「ご主人様」に対し、シンプルハートが不快感を示す様子は作中で何度か見られるが、自身が悪魔のような存在になっていくことを厭わしく思っていることが明言されるのは、この冒頭の対話の場面だ。シンプルハートが定義し、彼と共通する悪魔の性質とは人間の「責任を誤魔化す」ことであり、それはすなわち人間を「無責任」にさせることだ。シンプルハートにとって、人間を「無責任」な方向へと連れて行く「でびる屋」は、「嫌な気分」を「味わ」わされることであり、彼はそれを「好きでやっている訳」ではない。

「まるで自分が世界を背負ってるみたいな言い方するのね」/「いや、だから吾輩と、君だよ」/「私はどうでもいいっていうか、あんたが無理矢理巻き込んでるだけじゃない」/「吾輩だって好きでやってる訳じゃないぜ」[6]

 でびる屋という仕事をすることと「新たな未来」を目指すことは正反対の行為であり、シンプルハートは「新たな未来」という理想と「でびる屋」という現実の間で停滞している状態だ。「でびる屋」は、シンプルハートにとっては「新たな未来」への足枷なのである。
 三節では、この矛盾した状況の原因となる「でびる屋」をシンプルハートが続けなければならなかった必要性と、それによって引き起こされる問題を中心的に論じていく。

【注】
[1]大庭健『「責任」ってなに?』(二〇〇五年十二月 講談社)より引用。
[2]注[1]に同じ。
[3]テクスト(p.148 L3~p.152 L12)より引用。
[4]テクスト(p.36 L15~16)より引用。
[5]テクスト(p.13 L2~7)より引用。
[6]テクスト(p.147 L6~9)より引用。

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