OVER OVER HOLIDAY(シャークズ)

[ # 3 ]


 バターや砂糖をとかしていく匂い。小さな子どもが見る夢を、そのまま取り出したようなシャーベットカラーの甘い景観。頭の上に丸い耳を揺らしたカップルは仲良さそうに手を繋いでいて、いつもならわずらわしいばかりの喧騒も混雑も、ここでは気分を盛り上げる役目を振りかざしている。

 行き交う人並みは皆楽しそうだ。誰も彼もが幸福そうな笑顔を浮かべていて、それはそれは良い雰囲気で――そのふわふわ浮かれたようなシチュエーションに、紅葉はいよいよ耐えきれなくなった。

「――――ああもう! どういうつもりなのよ?」

「んん?」

 たまらずに文句をぶつけて立ち止まれば、前を歩く男はようやく振り返ってこちらを見る。

「なんでそんなに機嫌が悪そうなんだ?」

 首を傾げて尋ねてきた、不思議そうな顔を当然のようにしてみせるシンプルハートに、紅葉はますますぶすりとした。


 勝手に車で連れてこられて、勝手にここに降ろされてから、何の説明もなしにもう三十分近くは歩かせ続けられている。機嫌が悪そうも何も、これで機嫌が悪くならないでいられる方がどうかしている。ついでに機嫌を悪くされないと、自信満々でいられるこいつはもっとどうかしている――いや、あまりにも立て続けの混乱が続いて頭が回らなかったせいで、うっかり素直についてきてしまった紅葉も紅葉ではあるのだが。

「決まってるでしょ? なんでこんなところに連れてこられたのか、全っ然わかんないからよ」

 ぴしゃりと言い切ってすました顔を睨みつければ、彼の方はああなるほど、とごくあっさりと頷いた。そして話が長くなりそうだとでも判断したのか、手近なベンチに座って脚を組む。紅葉は座るかどうか一瞬迷って、そのまま立っていることにした。ベンチは隣しか空いていないし、身長差がだいぶ違うので、シンプルハートが座っているときには紅葉が立つ方が視線が合わせやすいのだ。もちろんシンプルハートの方も、別に席を勧めてはこない。

「いや、前の時にはハリボテだったから、ろくに楽しめなかっただろ? だから改めて、ここまでこうして来てもらったってわけだ」

 手をひらひらと振りながら、シンプルハートが当たり前の話をしているような言い方をする。紅葉はやはりますます仏頂面をする他ない。

「そーじゃなくて、私が訊きたいのは……」

 あんたが一体どういうつもりで、私と一緒にここに来ようと思ったのよ。

 ――などとは訊きたくないので、紅葉は言葉を切って黙り込んだ。

 高級ということしか共通点のない、相変わらずの車に乗せられて、連れてこられたのはテーマパークだった。夢の国という触れ込みでお馴染みのそこは、もちろん紅葉も何度か楽しんだことがあるが……こいつがディズニーシー? 全然似合ってない。

 今日はせっかくの日曜日なのに、急なテレビ番組の仕事が入ったからすぐに用意しろ、いややはり延期だ、と朝から振り回されてかなり疲れていた。ぐったりとしていたところに送ると車を用意されてつい乗ってしまったが、そのあとはもういい加減言い飽きている「なんであんたが運転してるのよ!」というやりとりで――そういえば〝送る〟とは言われたが、どこに送るかは言ってなかったなあ、などとちょっと考えてしまって微妙に悔しくなる。嘘は確かに吐かれてはいないが、納得しているわけでも全然無いのだ。エンドレスでかかり続ける陽気なマーチのBGMや、視界の端にちらちら映る、茶色やピンクのくまたちのふわふわとした甘い色合いに脱力しそうになるが、誤魔化されないぞと紅葉は心に決める。

「訊きたいのは?」

 シンプルハートにそう問い返されて、紅葉はむすりと顔を引き締め直した。

「……だから、なんで私が、あんたとこんなところにわざわざ来ないといけないのかって話よ。私にだって予定とかあるんだからね」

 むくれつつ文句を重ねた紅葉に、シンプルハートはちょっと肩を竦めた。

「吾輩の知っている限りだと、君の今日の予定は一日中テレビの仕事が詰まっていたはずで、ついでにそれは、ついさっきおじゃんになったばかりだったと思うが――じゃあ、戻るか? テレビ局まで。今戻っておけば、もしかしたら違う番組の代役に、見事抜擢されるかもしれないぜ」

 軽口だか本気だか定かではない口調でしれっと言われてちょっと押し黙る。どう考えたって冗談に違いないはずなのに、経験上、こいつがこういう言い方をするときは、何故か本当にそうなってしまうことを紅葉は知っている。まったくどういう手回しをしているんだかと、紅葉は諦めの混ざるため息をついた。

「……いや、仕事をするのは嫌だけど。でもなんで空いた予定があんたとディズニーシーなのよ?」

「気に入らない?」

「そういうことじゃ――……いや、当たり前でしょうが」

「でも別に嫌いなわけじゃないんだろ? 一応ここは遊ぶにもデートをするにももってこいの場所で、大抵の女の子が好みそうなものは大体揃っていそうなもんだが」

「あんたと一緒に楽しめるかどうかは全然別問題でしょ。それにそんなこと言われても、私ここに来てから延々と歩かされてるだけで、お店も見てないし乗り物にだってまだ一度も乗ってないんだけど。ファストパスも全部スルーしてるし」

「ああ、もしかして入口から攻めるタイプか? 吾輩は端から潰して行く方だ」

 ファストパスはこれ。と、ひょいとこちらに向けられたスマートフォンには見たことのない画面が映っていて、まじまじと見ればそれはどうやらアプリで取得した電子版のファストパスらしい。これってまだリリースされてないんじゃなかったかなと、紅葉は呆れ混じりにため息をつき。

 そうして――ため息をつくふりで、紅葉はそっと深呼吸をした。

「あのさ――そんなこといってるけど、どうせあんたは仕事で来たんじゃないの? 私がちゃんと楽しみ始めた頃に、実はさっきまでのは全部建前で、とか言って騙そうとしてるんじゃないの」

 ようやく訊くことができたその質問に、シンプルハートは意外にもきょとんとした顔をした。そして――数拍分の沈黙の後に、解けたようにふっと笑う。それは子どもを安心させるために浮かべるときのような表情で、その笑い方を見て、紅葉の息がぎくりと引き攣った。

 シンプルハートが脚を組み替えて口を開く。やや首を傾げて。

「そっちの方がいいのか?」

「――え? 何が……」

「だから、でびる屋の仕事って言った方が安心するのか?」

「安心、って――」

「つまり君は、吾輩のそういう思惑を期待していたということなのかな? ここに連れて来られたのはでびる屋の仕事の一環であって、他に特別な理由はない、と?」

「そ、そうじゃなくて――」

「確かに安心しないように、って散々言ったのは吾輩の方だったな。危機感を持てて来ているみたいで結構だ。なんだろうな、エクセレント、とか言うべきだったのかな?」

 声の調子は穏やかに、けれど紅葉には口を挟ませずに。こいつに言葉を遮られたことはほとんどない、と、紅葉はなんだか取り返しのつかないような気持ちで気付く。シンプルハートが立ち上がる。

「でも、まあ、君がそう思いたいというんなら」

「――えっ? ち、ちょっと――」

 思わず手を伸ばしてしまった紅葉に、シンプルハートは逆に手を振った。追い払うような仕草だった。

「ああ、ちょっとそこまで行くだけだから。君は別に来なくていいぞ」

 言い残して、振り返りもせずさっさと歩いていってしまう。他の誰よりも頭一つ分高いくせに、一体どういう歩き方をしているのか、男の姿は人混みに紛れてすぐに見えなくなって、紅葉はぽつんと取り残された。



OVER OVER HOLIDAY


[ # 1 ]


 かたい咳払いにふと顔を上げて、そのまま視線を止めたのは、その店員が随分と緊張したような顔をしていたからだった。かっちりとした黒と白のウェイター服の背筋が、定規でも差し込まれたようにますますぴんと伸びている。一度深く吸った息の音。紅葉の席を通り過ぎる背中をつい目で追ってしまったのは、もしかしてクレームか何かがあったのかな、と心配になったからで、けれど正し過ぎるくらいに正した姿勢の理由がそうではないことは、彼が口を開くとすぐに分かった。

「め…………、メーアイ、テイク、ユァ、オゥダァ?」

 May I take your order――〝ご注文をうかがってもよろしいでしょうか?〟。

 単語を一つずつ区切る、相手に聞き取ってもらうことを第一にした発音の英文。プロポーズでも申し込むような真剣な響き。なるほど、相手は外国のお客さんだったのか。それは確かにどきどきする――と、紅葉は彼より少し先に緊張を解いて苦笑した。横文字の教科書をどうにか音読しようとするときのような、たどたどしくて生真面目で、少し不器用そうな外国語。アメリカのドライブスルーでハンバーガーを頼もうとした英語の先生が、十回くらい言い直させられたと嘆いていたのを思い出して、ちゃんと伝わるといいな、と微笑ましく見守ってしまう。

「――I'd like an ice coffee please」

 どうやらきちんと通じたらしい。端正な英語が返ってきて、店員さんがセンキュー! と嬉しそうな声で答えているのが聞こえた。よかったね、と紅葉はつられてくすりとして――持ち上げたアイスミルクティーのグラスを、危うくテーブルに取り落としそうになった。

「な……………………、」

 こちらに戻ってきた先ほどの店員が、紅葉の手元でがちんと跳ねた、不穏な音に気付いて驚いたように視線を向ける。彼の左手がぎゅうと握られているのはガッツポーズでもしていたのかもしれない。嬉しがらないでくださいと、肩を揺さぶって訴えたい衝動に駆られて堪える。紅葉はぎこちなく微笑みらしきものを浮かべて、どうにか首を左右に振った。大丈夫です。お気になさらず。――全然大丈夫ではない。

 褐色の肌、湖のような色の瞳と、持て余すように組んだやたらと長い脚。癖のある髪は今日は後ろで軽く括られていて、スーツ姿は見知ったものよりやや崩れた印象があるが間違いない。

(な、なんであいつがこんなとこに…………!)

 シャーマン・シンプルハートのはずのその男は、紅葉の席より二つ向こうのテーブルで、頬杖をつきながら本を読んでいる。


 *


 下手に動くと見つかる気がしたので、メニュー表を立てて顔を隠して身を屈め、ギリギリまで壁側に体を寄せた。そいつの姿を見るのはあの例の薬物騒動ぶりだった。紅葉はうう、とテーブルに突っ伏してしまいたくなる。こいつに関わってロクなことになった試しがない、のに、どうしてよりによって。

 今日は母親の仕事のごたごたや、有名ホテルの出火事故(事故……?)や、学校での薬物騒動といった物騒なことが立て続けに起こった後の、随分と久し振りみたいな気持ちで迎えた日曜日だった。『結婚式を控える奈美お姉ちゃんの、お祝いのプレゼントを探しに行かないといけないから』という名目で、悪い事をしているみたいな引け目を納得させて、ようやく街に出てきたのに。ついでだからと自分に言い聞かせながら服屋や書店なんかを覗いてみたり、気になっていた映画の上映時間をチェックしたりなんかして、このお茶を飲んだら今度はどこへ行こうかと、結構浮かれていたところだったのに。

 メニュー越しにじとりと恨みがましく視線を送るけれど、当然シンプルハートの方は涼しい顔で本に目を落としている。運ばれてきたアイスコーヒーを普通に受け取って普通に口を付け、のんびりとページを捲っている。人の気も知らないで、よくもそんなコーヒーなんて飲みながら寛いでいられるなと紅葉は――のんびり?

(…………あれ?)

 小さな違和感。ぱちりと瞬きをして、メニューから顔を半分そろりと出して、紅葉は彼に改めて視線を向けた。

 やはりなんというか、どことなく崩れた――解けたような印象がある。なんだろう、と考えて、ああ、ネクタイだ、と気が付いた。

 いつも隙無くきっちりと結ばれていたはずだったネクタイが、知っているものよりも僅かに緩んでいる。いくつかボタンを外された首元。ようやく仕事を仕上げ終わって、ネクタイを軽く崩したときのような。

 珍しい頬杖と、無造作に括られた髪と、静かに捲られる本のページ。雲のない今日の晴天は日差しが酷く眩しくて、キンと冷えたアイスコーヒーが、なんだかやたらと美味しそうだ。

(あ――あれ? えーと、……ええと)

 ぽかん、と、一瞬思考が空白になって、それから思い当たった理由にぱちぱちぱち、と目を瞬かせる。ええと、これは、

 まさか、こいつも休みなのだろうか。いや、スーツは着ているから、もしかして今仕事を終えたばかり、とか…………こいつが?

「――――」

 目を離し損ねたまま固まっていると、シンプルハートは軽く息を吐くようにしてからぱたんと本を閉じた。頬杖をつきっぱなしで目を伏せる。一秒、二秒、そしてふと目を開けて、空いた左手ですいと白い紙を取り上げた。テーブルの端に置かれている、薄いペーパーナプキンの一枚。

 それを開いて、備え付けのペンも手に取ってくるりと回し、片手間のように何か書き付け、頬杖を崩すと三角、四角と折り畳んでいく。

「――…………」

 手遊びのようなそれをポーカーフェイスで淡々と折り上げて、テーブルに置いて、それから溶け切れていない氷の残るアイスコーヒーを噛み砕く様子なく全て飲み干した。空にしたグラスをひっくり返して、その折り紙を閉じ込めるように、コースターの上にことんと置いてしまう。

 紅葉はそれをぼんやりと見つめてしまって、それからはっと正気に返って「――な、」と小さく声を上げた。何してんのあんた、お店の人の迷惑でしょうが――いくつか言わなければならない事が思い浮かんで、けれどその前にシンプルハートは、伝票を掴んでするりと席を立ってしまった。

 勿論あいつは、紅葉には一瞥もしなかった。

(――あ、あー、もう、信じらんない……! 何してんのよあいつは!)

 どうして私が、と思ったが、しかし見なかったことにも出来そうになくて席を立った。幸いというか、店員はまだ席が空いたことに気付いていないらしい。せめてグラスを直さなければ。他にも何か変なことしてないでしょうね。渋い顔をしながらの考え事の隙間に、あいつは何を折っていたのだろうという好奇心が少し混じっている。薄くて柔らかいペーパーナプキン。流石にあれでは大したものは折れないと思うけれど……透明なグラスに閉じ込められている、それはやはり真っ白だったけれど、テーブルの傍まで寄ってしまえば正体はすぐに分かった。

「…………、はあ」

 ペーパーナプキン製のハズレ君だった。リボンや帽子の花飾りまできちんと折り込んであ

って、随分と細い足は重心のバランスが計算されているのか、ちゃんと危なげなく立っている。器用が過ぎて頭が痛くなりそうだ。紙で作られた、薄く透ける白のハズレ君は、目だけは黒いインクで描かれていて、やはりというか、にたにたと笑っている表情で固定されている――もういいや。早くグラスを直して席に戻ろうと、まだ少しひんやりとしたガラスに触れて、持ち上げようとした指がそのまま静止した。

 これ、開けてしまっていいんだろうか。

(……いや、いやいやいや。いいも何も……ただの紙でしょうが。何の心配してんのよ、私?)

 そう、紙だ。ペーパーナプキンで折られただけの、指で弾けば簡単に倒れてしまうだろうハズレ君人形――開けたところでどうなるというのか。半ば呆れるように思い、けれどなぜかそのグラスを持ち上げることができない。

 グラスに閉じ込められた真っ白なハズレ君。何かの御伽噺で読んだ、瓶詰めの悪魔を思い出した。その悪魔は確か、瓶の蓋を開ける代わりに、願い事を三つだけ叶えてくれるのだ。

「――――…………、」

 ……店員さんには悪いけれど、と。目を閉じて、しばし沈黙して良識と常識を撤回した。店員さんには悪いけれど、藪蛇になりかねなそうな真似はごめんだ。紅葉ははあともう一度ため息を吐いて、グラスをどうにかするのを諦めた。それに、と思う。

 それに、きっとまだ、シンプルハートの方はこの辺りをうろうろしている。いや、本当にそうなら意外すぎるけれど、でもなんだか本当に休み、という感じだったけれど、だけどもしかしたらやっぱりまた、おかしなことを企んでいたのかもしれないし、正直そちらの方がしっくりくるし。見つけてしまった以上、一応見張っておかないといけない気がした。確かにあいつに見つかって、せっかくの日曜日をあの訳のわからない問答に費やさせられてしまう羽目になるのはごめんではあるのだが、それでもせめてここに来ている理由くらいは聞いておかないと、どちらにせよ買い物なんて続けられそうにない。多分、今ならばまだ、あいつに追いつくことができるはずだ。

 よし、と紅葉は覚悟を決めて、冷えたグラスから指を離しかけ。おいおい、とそれを呼び止められるように声がかけられた。ノリが悪いなあとでも言いたげな軽い響き。せっかくの決心をあっさりと台無しにする、腹立たしくなるくらいに絶妙なタイミングの。

「出してくれないのかあ?」

 グラスの中のハズレ君が、紅葉に向かって全然当然だろう、みたいな調子で言って、――酷く不本意なことに、「まさか」ではなく「やっぱり」、と思った。

「………………、」

 驚くべきか、スピーカーやコントローラーを探すべきなのか、一瞬迷って、結局眉を顰めるだけになった。もうどうせこいつに関しては今更だ。ちらりと周りを窺うが、声が聞こえそうな場所には店員も客もいない。そういうところは無駄に抜け目がない。

 無言のまま席に座って、紅葉ははああ、と大きく息を吐いた。訊きたくないけど一応訊いてみる。

「…………出したらどうなるのよ?」

「願い事を三つ叶えてもらえるんだろ?」

「はあ?」

「いや、冗談だけど」

 ペーパーナプキンのハズレ君は、肩でも竦めていそうな声でしれっと言った。紅葉はますますむすりとする。こちらのハズレ君は本物のハズレ君のように糸で吊られていないから、勿論動けないし動いたりしていないのだが、紙製になっても改める気のないらしいこのふざけた印象に引っ張られるのか、なんだかさっきからいつも通りの忙しなさで飛び跳ね回られている気分だ。ここまでで既にだいぶ疲れた気がした。

「……いや、あのさ。何してんの、あんた」

「何って?」

「なんでこんなとこいるのよ?」

「喫茶店だろ? お茶を飲みにくる以外に何をすると思ってるんだ?」

「お茶を飲みにくる以外の何かを仕出かしそうだから訊いてんでしょうが。しかもあんたが頼んでたのって、お茶じゃなくてアイスコーヒーじゃん」

「ああ、アイスコーヒーって実は和製英語で、アメリカやなんかで注文しようとしてもほとんど通じないんだぜ。そもそも冷たいコーヒーを普通に飲むようになったのも、日本以外の国ではごく最近のことだしな。基本的にコーヒーというのはその香りを楽しむことを目的としている嗜好品で、匂いがよくわからなってしまうから冷やすことにはあんまり向いていないんだ。特にあっちじゃ日本ほど自動販売機が普及してなくて、日常的に冷たいものを飲むという文化があまり根付いてないし。うっかりアイスコーヒーください、なんて頼むとアイスクリームやらホイップクリームやらが山盛りにされためちゃくちゃ甘いコーヒーが出てくるから注意が必要だな。まあ、スタバのフラペチーノやなんかが好きなタイプなら止めないが――冷たいコーヒーを飲みたいんだったら、冷たくしたコーヒーを、と頼むか、もしくはコールドブリューを注文するといい。これは日本でいうところの水出しコーヒーってやつで、じっくりと抽出するから苦味や渋みの元となるカフェインやタンニンが溶け出しにくく、まろやかな味がするのが特徴だ。知ってた?」

「…………いや、私コーヒーってほとんど飲まないし」

「なんだ、じゃあ別に教えた意味なかったな」

「あんたが勝手に喋り出したんじゃない!」

 思わず大声を上げてしまって、はっとして慌てて口元を押さえた。ハズレ君は涼しい顔でひょひょひょと笑っていて、テンションがまるで違うくせに、温度が〝本人〟と全く同じなので更に苛つく。いや、涼しい顔もなにも、インクで描かれた目と紙の歯は、やはりぴくりとも動いていないのだけれど。

 あの真面目そうな店員が、大丈夫ですかと言いたげな表情を浮かべて、気遣うように紅葉と目を合わせた。いたたまれないと思いながらぺこりと小さく会釈して、逃げるように視線を逸らす。落ち着きたくてため息を吐き、そういえば、と思い出した。

「……あんたさあ、ああいうのはやめなさいよ。店員さんがかわいそうでしょ」

「ああいうのって?」

「日本語わかんないフリしてたじゃん。わざわざ英語で答えたりして」

「そうした方がウケるんじゃないかと思って」

「そんなわけないでしょうが」

「でもガッツポーズしてたぜ?」

「が、ガッツポーズって。あのねえ、あんなのぬか喜びさせただけじゃないのよ。全然悪いわよ」

「悪いかな」

「悪いでしょ?」

「でも、お前の英語へたくそだなとか言ったら、それはそれで怒られてたんじゃないのか?」

「あ、当たり前でしょうが! なんてこと言おうとしてんのよあんた!」

「ほら、正直に言っても怒られるじゃないか。どっちを選んでも君の機嫌が悪くなるんだろ? どちらにせよ結果は大して変わらないのに、なんで嘘をついたらいけないんだ」

「それは、だって、あんたの嘘は悪意があるじゃない」

「別に悪意のつもりはなかったが」

「いや、からかってたでしょ、あんた」

「嘘も方便、ってあるよな――嘘をついたら責められるのに、嘘をついてもいいという理屈が通るのはなんでなんだろうな。その理屈を通せるヤツと通せないヤツの境目はどこにある? ついていい嘘と悪い嘘があると思っているんなら、君は吾輩が嘘をつくことの何が気に入らないんだろうな?」

「日頃の行いでしょ。いつも人のことをからかったり馬鹿にしたりしてると、いざというときに信じてもらえなくなっちゃうのよ」

「ああ、確かによくあるよな、何らかのトラブルを起こしてめちゃくちゃバッシングを受けているヤツがいたけど、でも実はそれは誤解で、本当は別の要素が原因だった、つーよーなことが。ああいう事態が起こるときというのは、そもそもそういうことをするに違いないと皆に思わせてしまうようなヤツが一番問題があるから、つまりは最初から疑われるのが悪い、ということかな。だから一言の謝罪もなく家の周りを囲んでいたマスコミが消えたりしても仕方がない、と。君はそう思っている?」

「…………」

 この聞き方は絶対に悪意だ、と紅葉は思った。

「…………ああもう。ていうか、なんでせっかくの休日まで、あんたと訳のわかんない話をしなくちゃいけないのよ?」

 いよいよ機嫌が悪くなって、ぶすりと仏頂面になった紅葉に。けれど、そこで何故かハズレ君は、おいおい、と本当に不思議そうな声を出した。

「それは吾輩の科白なんだぜ。君が近寄って来たんだろ? 吾輩だって今日はせっかくのオフなんで、正直言えば君に付き合う義理も時間もないんだよな」

「は、はあ!?」

 こいつ何を白々しく、と言いかけて。けれどそういえば、彼を見つけてこの席に近付いたのは自分の方だったと気付く。そう言われてみれば、確かに接触しようとしてしまったのはこいつではなく紅葉が先で……いやいやいや、そうじゃない、と首を振って立て直した。そもそも――それは、

「それは、だから、あんたがヤバいことしてないか心配したんでしょうが」

「してなかっただろ? コーヒー飲みながら本読んでたんだぜ」

「お店のグラスをひっくり返したりするのは悪いことなんだけど?」

「その割に、グラスはこのままみたいだけどな」

「……なんで私があんたのグラスを直さなきゃならないのよ。ていうか、本読みながらコーヒー飲んで――とか言ってたけど、なんか結局読みかけのままどっか行っちゃったじゃない。あれって私に見つかっちゃったらまずいから逃げたとかなんじゃないの?」

「でも君だって、休みの日に買い物に行って、そこで学校の先生と会っちゃったら気まずいだろ?」

「う」

「本屋で本を選んでるときに、母親の仕事でチョロっと喋ったことがあるだけのヤツが『やあ、奇遇ですねえ』とか言って近寄ってきたらヤじゃないか?」

「う、うーん……」

「ほらみろ、やっぱり嫌じゃないか。それと同じで、吾輩だって気を抜きまくってるときに、取引先の相手にうっかり会っちまったら戸惑うんだぜ、ってことだよ」

「いや、あんたは全然戸惑ってるようには見えないんだけど……」

 やれやれ、とぼやくようなハズレ君の声が、なんというか本当に呆れているみたいに聞こえた。からかっているとかではなく、本当に心の底から迷惑そうな。これもうほとんど〝本人〟の方なんじゃないのかな、と、紅葉は嬉しくないことに気付く。ハズレ君らしく言葉を選ぶその科白とは裏腹に、声の響きは完全にそうだった。〝察しの悪いヤツだな〟だの〝この馬鹿は〟だの、ハズレ君よりもよほどわかりやすい無表情を読み取らせる、あの酷く面倒そうな〝本人〟らしい辛辣さで。

 意味があるとしたら、こうとしか思えない――〝邪魔するな〟と。

 薄い本のページを捲る、長い指先を思い出した。

「……ああ、もう……。わかったわよ。わかったっていうか……今日だけは納得してあげるわ。本当に、絶対に、誰にも迷惑かけたりしないんでしょうね?」

 犯人を見逃すときの気持ちってこういう感じなのかな、と思う。もう、多分とっくに、こいつをここに引き止める気なんてなくなっていると、呆れたいような自覚。わざわざ念押しを重ねておいて、「勿論」という返事しか期待していない。仕方ない、と、紅葉は諦めるように認める。私だって――、

 私だって、別にこいつの休日を邪魔したいわけではない。

 ふ、と、そいつは、小さく息を吐いた、ような気がした。微笑にも苦笑にも聞こえなかった。その息はようやく言うことを聞いた、とでも言いそうな響きをしていたのに、――何故だか、あんまり腹立たしくはない。

 グラスの中に閉じ込められたその白い紙人形が、まるでウィンクでもするような気軽さで、勿論、と言ってのける。こいつにしては酷く珍しい、期待通りの返答に、紅葉は少し目を見開く。

「ではクズっち、お互い良い休日を」


 ――ぱたぱたぱた、と足音が紅葉の横を通り過ぎて、目を上げればあの店員がテーブルの上を片付けているところだった。紅葉の二つ向こうのテーブルで、空になったグラスとペーパーナプキンをトレイに乗せている。あれきり沈黙したハズレ君は、紅葉がグラスの中から出して、一枚の紙に開いて四つに折り畳み直し、テーブルの上を拭くのに使ってしまった。

 これからどこに行こうか、と頬杖をついて考える。お茶をもう一杯飲んでもいいし、気になっていた映画を観に行ってもいい。手品師みたいな大泥棒が、マジックの種を見破られて追い詰められるらしいストーリーだった。上映時間は確か――、

 すみません、と声をかけられる。そちらを向けばあの店員が、今度は紅葉のテーブルに来ていた。かっちりとした黒と白のウェイター服。彼の持つトレイの上には紅葉の注文していないパフェがあって、首を傾げると軽く微笑まれた。もうかたい表情はしていない。装飾のない細長い三角形のグラスに、桃がまるごと乗っかっている。

「あちらにいらっしゃったお客様から頼まれていて……あなたとお知り合いだったそうなのですが、声をかける時間が無かったから代わりにと。いらなければ下げてもいいと仰られていたのですが、よろしければお召し上がりになりませんか? 季節の果物を使ったパフェなんですが」

「…………あー……」

 知らないひとです、と言おうか少し迷った。店員に差し出されたパフェの伝票に目を落とす。名乗る代わりにメッセージを書いて、これで分かるだろうからと渡されたらしい。英語だったので聞き取るのに苦労しましたと、店員は照れたように笑っている。桃のパフェ、二千円。ぺらりとひっくり返せば、確かに走り書きがしてあった。おざなりにされたThanksの文字と、ポップコーンを抱えて笑うハズレ君の落書き。ああ、と呟いてから数拍分の沈黙をして、自分の声がはい、と答える。

「――――知り合いです。いただきます、それ」

 あいつにばったり出くわしたことも、結局変な話に付き合ってしまったことも、知り合いだとか言ってしまったことも、多分あいつの観たい映画の邪魔をされないようにと甘いパフェで足止めをされているのも、まあいいか、と思った。今日は日曜日で、久し振りの休日で、だから普通と違うことになるのも、そんなに悪くないかもしれないとか、まんまと言いくるめられているような、この状況の誤魔化され方も。

 パフェの上に乗ったまるい桃は、フォークで切ったらカスタードとホイップクリームが入っていた。



[ # 2 ]


「車の中で勉強なんてしたら、文字が揺れまくって酔っちゃうぜ」

「揺れてないじゃないのよ、全然」

 当然、車は滑らかに動いている。〝サスペンションが他とはちょっと違っていてね〟とかなんとか自慢げにのたまっていた上級生を思い出し、あれって車うんぬんのせいじゃないだろうが、と、紅葉は開いた参考書にじとりと目を落としたまま八つ当たりのように思う。黒と薄いオレンジの文字を追いながらマーカーでラインを引いて、引いて、引いて、我慢比べのようにしばらくそうして、それからああもう、と本を投げた。買ったばかりの参考書が、座席の下に落ちて表紙が折れる。

「あのさあ、あんたのサボりになんで私まで付き合わなきゃなんないの?」

 車酔いを理由に降ろされないかなあ、とか思ったものの、まるで酔える気がしなかったのでそちらの方法は諦めて、紅葉はむすりとした顔を横の人形に向けた。窓の結露に落書きをしていたハズレ君が振り返り、紅葉に向かって肩を竦める。曇りガラスにむすりと怒った顔の落書きが一つ。

「いや、だから別に、君をサボらせたいっつー訳ではないんだけど。さっきも言った通り、吾輩の方は質問の手持ちがないんで特に言うことはないんだが、君は喋っててくれていいんだぜ、勿論」

「それをサボってるって言うんでしょうが! あんた私と喋るのが仕事なんでしょ? いやそれも意味がわかんないけど、でもあんたの方は黙ってるのに私だけ喋ってないといけないっておかしいじゃん」

「ほら、吾輩が付き合わせてるって訳でもないだろ?」

 ハズレ君がしらりと首を竦めたタイミングで信号が赤に変わったので、紅葉は無言でシートベルトに手をかけた。

「――いや、嘘嘘嘘。待てってまあまあ、悪い悪い。ね? ほら、実を言うと吾輩はマジでキレキレに仕事が出来るんで、日々あらゆるとこから引っ張りだこにされているんだ」

「降りていいかな」

「待って待って。で、呼ばれた吾輩がそこでもやっぱり優秀な仕事ぶりを発揮するだろ? 結果どうなるかっていうと、ますますあらゆるところに呼ばれまくって、休みを取ることが出来なくなり、本当に最悪な気持ちになる」

「それって自慢? 断ればいいんじゃないの」

「ご主人がやれっつってなければ断ってるよ。仕事を早く終わらせてしまえば合間で休めるかなとか思って頑張っても、必死こいて時間を作ったら作ったで、空けた時間に新しい仕事を詰め込んで来やがるからどうしようもない。酷い話だと思わないか? そーゆー窮屈な状況を延々強いられて、吾輩は考える訳だよ。たまにはゆっくりドライブでもして、羽を伸ばしたいなあ――ってな。だから君に来てもらっているんだな、今」

「何が〝だから〟なのかちっともわかんないんだけど」

「君なら近くに置いとくだけで、今仕事してますアピールが出来るだろ? 少なくともその間は、新しい仕事は入ってこないだろうな、と」

「あのさ、私がいいよ、っていうと思ってしてるの、その説明?」

 弁解みたいな言い方のくせに、全く嬉しくない言い様。人形はシートの上でトランポリンみたいにぴょんぴょん跳ねながら、丸い両手を大きく振り回して、大袈裟な調子で嘆いてみせる。

「こんなに仕事を押し付けられていて、吾輩結構可哀想じゃないか?」

「全然。つーか、私だってあんたのせいで、最近滅茶苦茶忙しいし。いい気味って思うわ、むしろ」

「じゃあ助けてくれない?」

「――――」

 問い返されて、紅葉はむ、と押し黙った。別に助けたくはない、と思う。助けたくは――、ふとバックミラー越しに運転手を見れば、青い視線がすいと逸れた。いつものように、紅葉のことなどどうでも良さそうに。信号はまだ変わりそうにない。歩道はすぐそこにあって、三歩も歩けば辿り着けそうだ。

「…………」

 本当に、助けたくなんて思っていない。いないが――でも、「なら仕方ないな」とこいつに言われるのも、それはそれで気に入らないような気がした。

「クズっち?」

 ぱちぱち、とハズレ君が瞬きをして、ちょっと首を傾げて不思議そうに名前を呼んでくる。紅葉ははああ、と深くため息を吐く。シートベルトから手を離して、足元の参考書を拾い上げ、軽くはたいて折れた表紙を直す。

 紙袋に戻して、代わりにブックカバーのかけられた単行本を取り出した。テレビの仕事だ雑誌の取材だと振り回されて全然読めていなかった、好きな作家の最新刊。

 こいつの休日事情なんてどうでもいいし知ったことではない。ないけれど。

「…………酔ったら降りるわよ」

「オーケイ! 絶対酔わせないから安心してくれ、クズっち」

「最初と言ってること違うじゃん、あんた……」

 今回くらいは付き合ってやってもいいかなとか思う。少なくとも、この本を読み終わるくらいまでは、まあ。

 飲み物買ってくれば良かった、とぼやいたら、パーキングエリアに着いたら教えるよと横の人形が歌うように答えた。



[ # 3 ]


 バターや砂糖をとかしていく匂い。小さな子どもが見る夢を、そのまま取り出したようなシャーベットカラーの甘い景観。頭の上に丸い耳を揺らしたカップルは仲良さそうに手を繋いで、いつもならわずらわしいばかりの喧騒も混雑も、ここでは気分を盛り上げる役目を振りかざす。

 行き交う人並みは皆楽しそうで、誰も彼もが幸福そうな笑顔で、それはそれは良い雰囲気で――正直、紅葉だって少しは浮かれていたのだ。

「……なによ。怒ったの……?」

 ベンチに座り込んで、ふてくされる台詞を叩いた憎まれ口は、なんだか泣く前のような声をしていて酷く不本意だった。

 ちゃんと言ってほしかったのだ、本当は。

 本当に来たくないのなら、紅葉はとっくに帰っていた。帰るチャンスなんていくらでもあったし、どうせあいつは自分からは全然振り返らなかったのだから、紅葉がちょっと立ち止まってしまえば、この人混みの中ではすぐにはぐれていただろう。あの仲の良さそうなカップルとは違って、紅葉はあいつと手を繋いでるわけでもないのだ。

 運転手の変装だって、あいつはわざわざ紅葉の横までやってきて車のドアを開けたのだ。紅葉が車に乗る前から、紅葉に自分の正体がバレているのはわかっていたはずで、それなのに紅葉は車に乗って、だから――あいつと一緒にいるために、紅葉がここまであいつの後ろを追ってきたことくらい、それくらいわかりそうなものなのに。

「……いや、あいつはそもそも、そういうことが全然わからないんだったわ」

 もちろん、言わなければ何も伝わらない。散々わからないわからないと言われ続けていたので、それはわかっているつもりだった。でも……それでもあんなに話をしたのだから、紅葉の気持ちぐらいは少しはわかるようになってくれているような気がして、だから期待をしてしまったのだ。だけど全然そうではなくて、紅葉は勝手に落ち込んでいる。――落ち込んでいる?

〝――そっちの方がいいのか?〟

〝だから、でびる屋の仕事って言った方が安心するのか?〟

「――――あ、」

 ぱちり、と、小さな星の散るような瞬き。

 言わなければ知られない。説明しなければ伝わらない。わかってもらおうとしなければわからないというのならば――紅葉はぎゅうと手を握る。

 ならばあいつだってわかったフリだ。私がまだ全部伝えていないのに、私の気持ちをわかったつもりになっている。――――私だって、

 どうして怒ったような雰囲気だったのとか、どうしてがっかりしたような顔をしていたのとか。

 自分だけであいつの答えを出せるほど、あいつのことを知らなくて、わからないことに都合のいい解釈をつけるのなんて簡単で。だけど――紅葉はあいつを、あいつのことを、そんな中途半端な答えだけではもう満足ができないのだから。

 あんただって、と紅葉は思う。

 あんただって、全然言葉にしないくせに、私に全部伝わってると思ってるじゃない。

 言葉にしないと伝わらないことなんて今更だ。なぜならあいつは今まで出会ったどんな人間よりも面倒で融通の利かない分からず屋で、そして紅葉はそんなあいつと、何度も何度も話をしてきたのだ。何度も何度も伝えないと伝わらないことなんて今更わかりきっていて、そして――紅葉はそんなあいつに、ちゃんと紅葉の気持ちをわからせなければ気が済まないのだ。

 来なくていいということは、ついていってもいいということだ。

 紅葉は弾かれたように立ち上がり――そこで、

「おおっと」

「――――っ……?」

 聞こえた声に思わず顔を上げれば、シャーマン・シンプルハートが立っていた。高すぎる視線で目を合わせて、紅葉は口をぱくぱくとさせる。

「な――なんで」

「何でってなんだよ? せっかく買ってきたのに、君がいきなり立ち上がるから、ビビってちょっと落としかけたぜ」

「か……買ってきたって何を……」

 訊くよりも先に、ふわ、と甘い香りがした。とろりととけた砂糖の匂い――キャラメル味の大粒のポップコーン。白いセーラー服と水兵帽を身につけた、茶色いくまのポップコーンバゲットは、確か普通のものの七倍くらいする値段だったような。ひと抱えあるそのバゲットを不意打ちで渡されて、紅葉はちょっとよろめくように、ベンチにすとんと逆戻りした。ぽかん、と目を丸くする。

「――これって」

「ポップコーンだな。ここではよく口にされているんだろ? 君もニュースやなんかで耳にしたことがあるだろうが、食べ物でよく起こってしまう問題といえば、大体が添加物とか原料とか製造元なんかに関してだ。賞味期限が切れてるものをそのまま販売しちまうようなセコいケースもある。普通に食べたらアレルギーを発症したり、食中毒になったりとかな。特にこういうテーマパークで売られているような食べ物なんかがやたらと問題視されるのは、スーパーのお菓子なんかと違って成分表示の分かりづらくなっているものが多いからだろうな」

 唐突に始まった解説に、呆気に取られる紅葉に構わず、シンプルハートは長い指先でポップコーンをひょいと摘んで口に入れると、味を確かめるようにもぐもぐと咀嚼して、そのままごくんと飲み込んだ。

「んで、吾輩の仕事はそういった問題が起こったときに、その問題をどうやって解決するかではなく、問題そのものをもみ消して無かったことにしてしまいたいと考える連中から回ってくる。例えばこのポップコーンに何かかしらの問題が発生していたとして、そしてそれを誰かにバレちまう前に一刻も早くもみ消さなければならなかったとして、こんな日曜日の人の多さじゃポップコーンなんて売れまくるに決まってるから、吾輩はこんなところでのんびりしている場合じゃないな」

 また一粒、シンプルハートはポップコーンを口の中に放り込む。

「では、ならばなんで吾輩はこんなところにいるのかというと――そうだな、こんなに大規模で目立ちまくる相手からの依頼を受けるのは、いくら吾輩とはいえかなり骨が折れるだろうから、もしかしてこの先万が一に、正式に依頼されることがあるかもしれない、っつーときのことを考えて、その下見をしにきた――というところでどうだい?」

 口を挟む暇もなく、なんだかよくわからない説明をずらずらと並べ立てられて、紅葉は困惑するしかないが――紅葉は抱えたポップコーンと、シンプルハートの顔を見比べる。

「下見って……何するのよ?」

「ふむ。まあ、こうしてポップコーンなんかを食べてみて、吾輩が出張らされそうな怪しい

ものが入ってないかチェックするってところかな?」

「……わかるもんなの、それ?」

「いや、全然」

 シンプルハートが肩を竦め、それからパチンと片目を閉じた。どこかの人形を思い出すような、強引な理屈を通すいたずらっぽいウィンク。

「さて、これで吾輩の仕事も片付いたことがわかっただろうから、君が気にすることもなくなっただろ? いい加減機嫌を直して、吾輩と遊びに行かないか?」

 ――バターや砂糖をとかしていく匂い。小さな子どもが見る夢を、そのまま取り出したようなシャーベットカラーの甘い景観。いつもならわずらわしいばかりの喧騒も混雑も、ここでは気分を盛り上げる役目を振りかざしている。

 行き交う人並みは皆楽しそうだ。誰も彼もが幸福そうな笑顔を浮かべていて、それはそれは良い雰囲気で。紅葉はすいと当たり前のように差し出された、そいつの右手をしばし見つめ――

「――あんたも一緒にカチューシャをつけるっていうなら、機嫌を直してあげてもいいわよ」

「え?」

 ちょっと目を見開いたシンプルハートの手を掴んで。紅葉は笑ってしまう顔が見られないように、先に立ってぐいと引っ張った。


 *


「――そういえば、あんた一体どういうつもりで、私と一緒にここに来ようって思ったのよ?」

「え? 最初に言っただろ? 前のときには遊べなかったから、改めて遊びに来たかったって」

「はあ? なによそれ? じゃああんたがここに来てみたかったってだけの話なの、これ? ふざけてるとかからかってるとかじゃなくて?」

「いや、だからそう言ってるだろ?」

 怪訝そうな声でそういったシンプルハートは、見るのは随分と久し振りのようなポーカーフェイスで。

 けれど何故だかその無表情が、今日一番気持ちがわかりやすくて、その酷く不本意そうな彼の様子に、紅葉は思わず吹き出してしまった。


〝OVER OVER HOLIDAY〟closed.

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