矛盾の合わせ鏡、あるいはマジック・ミラーが割られるとき
「『あらゆるものを嘲笑うのが悪魔ならば、悪魔自身を嘲笑うものは、なんと呼べばよいのだろう?』」
「またなんか、よくわかんないことを……なによそれ? なぞなぞ?」
「まあこれは吾輩じゃなくて、とある作家の言葉なんだが。君だったら、そいつのことをなんと呼ぶかい? クズっち」
「いや、ていうかそれ、まず前提からおかしいんじゃないの。あんた、前に〝悪魔には自分というものがない〟とか言ってたじゃん。それがないってことは、自分自身を嘲笑うことってできないわけで。だから悪魔自身って言い方は、最初から矛盾してんじゃないの。引っ掛けっていうか、意地悪言ってるだけっていうか、答えのない問題ってやつなんじゃないの、それ」
「なるほどなるほど。つまりあの有名な逆説だな、〝クレタ島人は嘘つきであるとエピメニデスは言った、だがそのエピメニデスはクレタ島人である、とすると彼は嘘つきなのだから、彼が言ったことは嘘で、つまりクレタ島人は嘘つきではない、とすると……〟ってやつだ。しかしだな、それを前提とするなら、吾輩と君がこうして問答をしているって図も、なんだかおかしいところがあると思わないか?」
「おかしいところっていうか、全部おかしいでしょ、最初から。何がおかしいっていうのよ?」
「問答というのは対話を整備するための手段であり、対話というのは相手と対等な関係を築くための方法なんだぜ。これはソクラテスやプラトンが論じ合う時代からの基本中の基本の話だが――吾輩が〝悪魔〟と定義されるならば、悪魔には自分というものがない、つまり対等な関係を築く〝相手〟として機能しない以上、君は吾輩と問答をすることは、真の意味では不可能――と、そういう風には思わないかね?」
「……あんた、よくそんな、人の癇に障るよーなことをぽんぽんぽんぽん思いつけるわね」
「何が君の癇に障ったか知らねーが、だがそもそも〝悪魔には自分というものがない〟という前提を定めたのが〝悪魔〟という役割を持つ者である訳だから、ここで既にして疑問が生じているよな。すなわち『自分というものがない』悪魔は、自分自身、つまりは『悪魔自身』を定義できるのかという矛盾――いやいや、それとも悪魔は悪魔自身を既に定義してしまっている訳だから、『悪魔自身』という破綻した概念は、もはや実体化させられていると考えるべきかもしれない。ふむ、ということは、そうだな、こんなに辻褄の合わない不条理をやってのけてしまうなんて、これぞまさしく悪魔の仕業――という結論っつーことでいいのかな、これは?」
「いい訳ないでしょうが。あのさあ、あんたが〝矛盾を追求すれば、その先に新たな未来が人類の前に拓けるかも知れないぜ〟――とかなんとか偉そうに言ってたのよ? ちょっと自分に関係する話題になって気まずいからって、それで話を終わらせにかかろうとするっていうのはズルいんじゃないの?」
「ん? いや、この話を振ったのって、確か吾輩の方だったと思うが――しかし、なるほど。つまりはクズっち、君はこの大いなる矛盾を孕んだ問いに、真っ向から立ち向かおうという訳なのかな? 合わせ鏡の奥の奥まで延々と覗き込んでもまだ足りないような、このかくも途方なく面倒で鬱陶しくて厄介極まる堂々巡りの問題を、見事に解決する、そんな答えを出してやろうという気概があると?」
「そーゆー同じところをぐるぐる回るような焦点ブレブレの面倒な話には、こっちは今まで散々付き合わさせられてきてんのよ。たまにはあんたが責任持って付き合いなさいよ。っていうかさあ、そもそもあんたが言ってた前提の方が全然間違ってて、悪魔の中にもちゃんと自分を持ってるヤツがいるのかもしれないじゃん。そこら辺はどーなのよ? どう思ってるわけ? ちゃんと考えたことあんの?」
「おっと、前提の方を引っくり返して、もう一回最初から論じましょうって? いやはや、本当に堂々巡りで楽してらんないな、これは」
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『あらゆるものを嘲笑うのが悪魔ならば、悪魔自身を嘲笑うものは、なんと呼べばよいのだろう?』[1]
「私と悪魔の一〇〇の問答」は、この一節と共に幕を開ける。以後延々と並べ立てられていく問いの、その一番初めの質問だ。
前提として、この問いと「私と悪魔の一〇〇の問答」というタイトルは、どちらも矛盾を孕む。例えばこの作品は、悪魔を「自分というものがない」存在として定義する。自身とはもちろん自分のことであるから、「悪魔自身」という概念は最初から破綻しているのだ。自己を持たない悪魔では、自分自身を嘲笑うことはできない。
またタイトルにおいても、悪魔が問答をするという点で問題が生じる。問答とは対話を整備するための手段であり、対話は相手と対等な関係を築くための方法だ。悪魔が自分を持たない存在だと定義され、対等な関係を築く「相手」として機能しない以上、「私」は悪魔と問答をすることは不可能なのである。
更に踏み込めば、そもそも「悪魔には、自分というものがない」という前提を定めたのは、作中で「悪魔」という役割を持つ者であるから、「自分というものがない」悪魔は、自分自身、つまりは「悪魔自身」を定義できるのか、という「悪魔自身を嘲笑うものは……」の問いが内包する矛盾へと逆戻りしてしまう。いや、悪魔は悪魔自身を既に定義してしまっているのだから、「悪魔自身」という破綻した概念は、もはや実体化させられていると考えるべきかもしれない。まさしく「辻褄の合わない」「不条理」をやってのけてしまう「悪魔の仕業」という訳だ。「悪魔の仕業としか思えないような」矛盾を内包する問いは、これ以降もシャーマン・シンプルハートによって滔々と列挙されていくことになる。
矛盾する構造を解体しようとすれば、我々はその矛盾のために、何度も「ぐるぐると同じところを回」らなければならない。このような構造を、高橋康也は「鏡の廊下」あるいは「合せ鏡」と称した。
われわれはどうやら鏡の廊下に迷いこんでしまったようである。クレタ島人は嘘つきであるとエピメニデスは言った、だがそ のエピメニデスはクレタ島人である、とすると彼は嘘つきなのだから、彼が言ったことは嘘で、つまりクレタ島人は嘘つきではない、とすると……あの有名な論理的逆説にも似た意味論的迷宮が、「痴愚神礼讃」という一句に、さりげなく、しかし紛れもなく内蔵されているのだ。仕掛けのポイントの一つは、おわかりのように、「痴愚神の」という属格の両義性にある。これによって意味上の主格と目的格が分裂したはざまをねらって、「礼讃」という言葉の両義性を蝶番として、主格および目的格の「愚」が自在に反転を繰り返す。この「愚」―「賢」―「礼讃」―「偽・礼讃」の回転扉にまきこまれた読者は、もはや確固たる自分の視点に固執することはできない。〔略〕こうして「愚」と「愚」は、「礼讃」という「うそ」か「まこと」か判然とせぬいかがわしい意味的論空間をはさんで、互いに向かいあう鏡となる。そう、「合せ鏡」のほうが「回転扉」よりも適切なイメージかもしれない。ここでは「愚」と「愚」、「愚」と「賢」が、同じところをぐるぐる回るというよりは、互いに相手を相対化しつつ、果てしなく奥へ奥へと意味の空間を深めてゆくからだ。[2]
高橋は、この「合せ鏡」状の矛盾の追究を、「互いに相手を相対化しつつ、果てしなく奥へ奥へと意味の空間を深めてゆく」プロセスであると論じる。「確固たる自分の視点に固執すること」が出来なくなり、「『うそ』か『まこと』か判然とせぬいかがわしい意味的論空間をはさんで、互いに向かいあう鏡」の工程。これが常識という「空気」をシンプルハートによって崩されていく葛羽紅葉と、紅葉にひたすらに矛盾を投げかけるシャーマン・シンプルハートの問答の構造だ。そしてシンプルハートは、この「互いに相手を相対化しつつ、果てしなく奥へ奥へと意味の空間を深めてゆく」問答を「新たな未来が人類の前に拓ける」可能性であると述べる。
「おいおいおい、そんなに〝本質〟に義理立てしないで粘ってみろよ。矛盾を追究すればその先に新たな未来が人類の前に拓けるかも知れないぜ」[3]
矛盾を追究することで「新たな未来」は拓かれる。「新たな未来」は、矛盾を追究することでしか到達することが叶わないステージにあるのだ。人間にとっての新たな未来、すなわち新たな歴史を織りなすための、その鍵となる答えを引き出すことこそが、シンプルハートが紅葉に矛盾を問い続ける理由であり、彼が焦点としたところであったと言えよう。
とはいえ、シンプルハートは人間を新たな未来へ繋げようとすると同時に、人間の新たな未来というものを、自分とはまったく関係しない他人事であるとみなしているのも確かだ。彼が「未来」というものが、自分にも関係があるものだと決断したのは物語が終盤に差し掛かってからで、その時点までシンプルハートにとっての「人間」とは、自分とは決定的に断絶する存在だった。「人間」を「世界」と言い換えるシンプルハートは自身を「ハズレ君」と名付けるが、それは彼が、彼自身を世界と切り離された存在だとみなし、彼を世界から「外れている」ものだと認識するからである。対等な矛盾の追究が「合せ鏡」であるならば、ハズレ君という人形を間に挟み、自己の視線を隠して紅葉と人形の問答を観察するシンプルハートは、鏡ではなくマジック・ミラーの中にいるのだろう。紅葉が魔法の鏡を割り、彼を引っ張り出すときにこそ、彼らは本当の意味で対峙して、シャーマン・シンプルハートは「未来」と接続する。
紅葉とシンプルハートの一連の問答は、未来のための答えを得ることを焦点とする。拙論は、その「未来のための答え」を得る意義における、シンプルハートの断絶を始点として、「未来のための答え」をシンプルハート自身が獲得するまでのプロセスを論じるものである。
なお「私と悪魔の一〇〇の問答」において「ハズレ君」という人形を指し示す際、それらにはすべて「シンプルハートが操る」という主語が内在しているため、拙論では作品の中のハズレ君の台詞をすべてシャーマン・シンプルハートという表記に統一している。
【注】
[1]『私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100』(p.7 L1)より引用。尚、これ以下の注では『私と悪魔の100の問答 Questions & Answers of Me & Devil in 100』はすべてテクストと表記、論文では「私と悪魔の一〇〇の問答」表記に統一する。
[2]高橋康也『道化の文学』(一九七七年二月二十五日 中央公論社)より引用。
[3]テクスト(p.158 L3~4)より引用。
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