#世はきみ3 ミルクと狸と深夜二時(長谷酸)
どこにでも〝潜れる〟とはいえ、どこもかしこもそうして済ませるほど無精というわけでもないので、長谷部は渡されていた鍵を素直に回して扉を開けた。チェーンを外されていたのは幸いだった。チャイムを鳴らして中の者を呼び付けたくなかったのは、詩歌が眠っているかもしれないと思ったからだ。深夜二時の少し手前。彼女の状況が状況ではあるから、もしかしたら不安で眠れていないということもあるだろうが、もしも眠れているのならば、不用意に起こしてしまうのは気が咎めた。
朱巳や長谷部が確保しているセーフティハウスはいくつかあるが、ここはそのどれでもなく、ハリウッドが選んだものだった。玄関口には、行儀良く揃えられた詩歌の小さなローファーと、無造作に端に寄せられたハリウッドの革靴の他に、割と手入れをされていそうなビジネスシューズやら、履き潰されたスニーカーやらが並んでいる。埃の無い下駄箱の上に、丸い葉の観葉植物。家主はちょっと出掛けているだけ、という風情で、恐らくそれはその通りなのだろう。長谷部は軽く肩を竦める。どうやら詩歌を連れている手前、あいつにしては珍しいことに、居心地というものを選ぶ基準にしたらしい(感心なことだ)。
足音を立てないようにして、オレンジの光が細く漏れる、半端に開けられたドアをそのまま引くと、どうやらリビングらしかった。キッチン、テーブル、部屋のちょうど真ん中あたりに配置されたソファ。中へ進みながら、さてハリウッドは――と、巡らせようとした視線が固まる。足が止まる。
ソファの肘掛けに脚を引っ掛けるようにして、ゆるく腕を組み、座面に体を――横たえている、としか形容できない格好。造りの細いシルエット。目は――目は閉じている?
そいつの瞼が落ちているのを、長谷部は信じられない気持ちで見つめる。光景の強烈さに反して意外と間の抜けた声は出なかったが、ただ絶句しているだけだったかもしれない。
ハリウッドが寝ている。
何かの間違いに遭ったような気分で、しばし遠巻きに眺めた。寝息か、あるいは呼吸を確かめることを思いつき、実行できずに終わる。これでこいつに寝息があったら、どんな感情になればいいのか分からない。起こす? 起こさない? というか本当に寝ているのだろうか? こいつが眠っているのを見るなんていつぶりだっただろう、遥か昔過ぎて、もう思い出せるかどうか――
「……騒々しい」
ぼそり、と小さいくせに全く遠慮のない罵倒が飛んできて、長谷部は引き戻されるようにハリウッドの顔を見た。いつも通り、よりもやや鬱陶しげな表情。寝起き――にしては、自分を真面目に悩ませた、余韻のようなものはまるで無い。いや、これで眠たげに目でも擦られたら、それこそどういう顔で見ればいいのか分からないが。
「おまえ、寝てたの?」
「……てない」
面倒そうな響きで言い、腕を解いて、ハリウッドが片手で前髪を掻き上げた。言葉通り、開いた目には眠りの欠片も見えない。
「……目を閉じていただけだ」
「なんで?」
尤もな疑問を投げれば、やつは少し眉を顰めた。あまり言いたくなさそうに。それからふう、と一つ息をついて口を開く。何かを諦めたような顔。
「……彼女が」
「詩歌さんが?」
「……僕が、ずっと寝ていないようだから、心配だと……僕が眠るまで寝ないと、言い張って」
堪えようとしたがだめだった。
詩歌さん。長谷部は堪え切れなくなってくつくつと喉を震わせる。「っふ、く、はは、」詩歌さんすげえ、無敵だ。
君の一言、この男が俺の前でも五百年来しなかったことさせてるぞ。
「……京輔」
「は、はは、いや、すまん、でも、でもおまえが……狸寝入りって……」
「…………」
ひんやりとした視線が刺さっているのは分かるのだが、どうにもおかしくて弁解が出来ずに困っていると、ふと廊下から足音が聞こえた。ハリウッドに目配せをしようと顔を向けたら、やつはやつらしくない素早さで既に二度目の狸寝入りを決め込んでおり、長谷部は一瞬また笑いの発作に襲われかけたが、今度は詩歌さんのためにどうにか堪え切る。
ぱたん、ぱたん、ぱたん。多分スリッパがぶかぶかなのだろう、随分と歩きにくそうな、それでもどうにか引き摺らないようと奮闘していることがひしひしと伝わる足音が近付いてくる。何となく見守るような気分でリビングの入り口を眺めていると、こそり、と息を潜めるようなやり方で、小さなシルエットが顔を覗かせた。とろりと眠たげな瞳が、しっかりとソファのハリウッドを確かめて、頼りない揺れ方をしてから、長谷部に気付いて丸くなる。
「……あ、あれ? はせべさん! おかえりなさい」
「よう、詩歌さん。もしかして、こいつが寝てるか確かめに来たのか?」
「はい……ひいらぎさん、ちゃんとねるって、いってくれたんですけど……しんぱいになって……おきちゃってませんでしたか?」
「あー」
返答次第では足出されるな、と声には出さずにひとりごち、長谷部は大真面目な顔を作ってみせた。
「よく寝てるよ。この分じゃ、朝まで起きないな」
「ほんとうですか?」
「ああ。なんなら、こっそり起き出しちまわないように俺がちゃんと見ておくよ。もしも起きようとしたら、そうだな、また寝かしつけりゃいいか?」
「はい……!」
こくこくこく、と頷いて、詩歌がほっとしたように顔をふにゃりと綻ばせた。ありがとうございます、よろしくおねがいします。緊張が解けたのか、いよいよ睡魔に負けてきたらしく、お礼が舌足らずにとろけている。つられて長谷部も目を細めた。
「なんのなんの。こいつのことは安心していいから、詩歌さんもちゃんと休むんだぞ。眠れそうか? ホットミルクとかは?」
「だいじょうぶです、あ、でも……ホットミルク……」
しぱ、しぱ、と、もう落ちっぱなしになってしまいそうな重たげな瞬きと、少しばかり後ろ髪を引かれたような声。先回りをしてオーケー、と請け負った。
「出来たら持ってくから、ベッドで待っててな」
「わあ、ありがとうございます……! あの、それ、」
「ハリウッドにも?」
「はいっ。もしも、おきちゃったら」
ちらりと横目で当人の顔を盗み見ると、素知らぬ顔で目を閉じていたので、こちらも澄ましてわかった、と答えてやる。ほとんど夢の中みたいな顔で、詩歌が嬉しそうに笑った。素直にぽてぽてベッドへ戻っていく小さな背中を見送って冷蔵庫に向かう。これで牛乳が無かったら危なかったが、幸いなことに冷蔵庫の中できちんと冷えていたので、なるべく可愛らしく見えそうな色のマグカップを選び、牛乳を注いでレンジに突っ込む。あの分だと飲めずに終わりそうだが、とはいえ子どもの期待には応えてやるのが大人の役目というものだし、個人的になんというか、お返しをしないとな、みたいな気分になっていた。ついでに砂糖も探し当て、よし、と一つ頷いて振り返る。
もちろんそいつの据わった目には、先程のやり取りの微笑ましさなど微塵も反映されていない。
「…………余計なことを」
悪態。ソファの上で寝転がったままの癖に妙な迫力を出してくるが、表情を確かめると案の定、ややバツが悪そうに見えなくもない顔をしていた。機嫌を損ねるに違いないとは思ったが、口元を隠す気になれずにそのまま笑う。見計らったように電子レンジが軽やかな音を鳴らして、長谷部は砂糖瓶をからりと開けた。
詩歌は眠っていた。柔らかな寝息に少し目を細め、おやすみ、と口の中で呟く。役目を果たし損なったホットミルクを片手にリビングへと戻ると、ハリウッドは今しがたのやり取りの全部を片付け終わったような態度で、ソファに座って足を組んでいた。ホットミルクを押し付ける。やり損ねた面倒ごとに出くわしたような表情で、ハリウッドが迷惑そうに視線を上げる。
「……なんだ」
「いやあ、眠れないんなら、ホットミルクでも飲ませてやろうかと。詩歌さんに言われたもんな、なあ? ハリウッド」
「……これは、おまえが持て余しただけだろう……」
ため息を一つ吐き出し。真っ直ぐに手渡された穏やかな熱に観念するように、ハリウッドがマグカップを手の中に納める。別にもう味なんて取るに足らないことだろうに、生真面目な顔で口に含むと、甘そうに目を細めた。
〝Milk & Mr. Sham sleep at AM 2:00.〟closed.
▽ 夜明け頃(桐とろさんが続き書いてくれました!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!)
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