誰が彼をホフマンにしたのか(シャークズ)
「み、みさ、みみみさ、みさ、さ、みさ……」
その男の譫言は、一音ごとに音階がどうにかなっていくので、声よりも止め損なったアラームか何かに聞こえた。押したら音の鳴る子どものおもちゃのボタンを、うっかり押し続けているような音だった。
「……き、美咲、美咲、美咲、美咲、あの……あの、く、くく、クソ女ァ…………」
美咲! 男を望むままに誑かし弄ぶ、ああ、あの傲慢で狡猾な、どうしようもなく卑劣な愚か極まりない女。憎い、憎い、憎たらしい! あいつは俺の気持ちを知っていて、俺を選ばなかった、俺を捨てた、俺をこんな目に遭わせた!
頭蓋骨の中で反響するように言葉がわんわんと鳴っている。もしかしたら叫んでいたかもしれない。目の前が真っ赤に染まって熱く、焼けたように痛い。喉が酷く渇いている。爛れて渇いて渇いて苦しい。この渇きが消えるのならばなんでもいい。どうすればいい? 男の手元はがくがくと引き攣り続け、包丁は弾く光をでたらめに撒き散らしている。包丁、そうだ、これは包丁だった。
この美しく醜悪に飾られた、どうしようもなく忌々しく憎たらしい全部を台無しにできる唯一の。
鈍く沈む刀身。深く振り下ろす光景がぱっと閃きかけた一瞬、水に浸されたように――満たされるのが、
「まあ、別にそれでもいいんだが」
――――熱を、
引き取るような声だと思った。包丁を隠す、あるいは突きつける、どちらも出来なかった。振り返った先にいた、その男はあまりにも平然とした顔で彼の前に立ってしまって、だから彼は包丁を握り締めて、招かれることのなかった結婚式場に無断で入り込んでいるという、この自分の行為と状況の異質さを思い出し損なった。
「でも例えば――そう、望まぬ結婚から自分を救い出してくれる誰かを、本当は待っているかもしれない。花嫁を式場から掻っ攫ってしまうなんて、いかにも映画向きのハッピーエンドだしな」
その男の言葉は淀みがなかった。注がれる言葉が水のようだった。渇きが満たされる感覚を思い出し、もう一つの選択が上書きされて消える。
「もしもそうだとしたら、おまえはどんな役をやりたい? 彼女は今、おまえにどんな役をやって欲しいんだろうな」
「彼女は――美咲、は………………」
「彼女を救い出す王子様に――おまえはホフマンになれるかな」
誘われるように目を落とす。自分の手の中に持っている。鈍く沈む刀身が、今は美しい銀色に見えた。確かめるように強く握り締める。きらきらと光を纏い滑らかな。きっとあの細い薬指に差し入れられるだろう指輪よりも。
この美しい銀色を差し出せば、あるいは彼女は自分の手を取ってくれるのだろうか。
なれる、と、答える声が聞こえて、それはどうやら自分のものだった。硝子に爪を立てるように上擦った声の理由が、歓喜に震えていたせいか、単に正気を踏み外していたせいか、どちらにしろ彼にはもう、判断する部分は残っていないようだった。
「そうだ。そうとも、俺だ、俺がホフマンになるんだ。そう――美咲もきっと、それを望んでいる…………!」
「ああ、きっと、多分な」
思い込みの中で、彼は極めて理知的に勇敢に返したが、実際に漏れた言葉は舌が回らず音を無意味に連続させて発声させていたために聞き取りづらかった。彼はホフマンという言葉がとある映画の主人公を演じた役者の名前だということも知らなかったが、知らないことにも気付いてはいない様子だった。
ホフマン、ホフマンとその名前を何かのおまじないのように繰り返す彼のことを、男は酷く気のない顔で眺めていたが、彼の握り締める包丁の切っ先が鏡のようにきらりと光を弾いたのを認めると、思い付いたようにこう言った。
「ああ――そうそう。向こうの奥の衣装室には、靴やモーニングなんかが吊ってあるから、格好良くきめて行ったらどうだ?」
*
「愛を誓い合う、ねえ」
男は白く薄いその招待状を、ひらひらと弄んでいる。
愛を誓い合う、神聖なる儀式の中にも――そう、いつ善からぬことが紛れ込むか知れたものではない。全てのことに神と悪魔が貼り付いているのが人間の生活だったとして、それを普通と名付けるのなら止める気はない。どうせここまでしか出来ない、――――だが。
「さて――彼女はどうなのかな」
落ち着き払っていた声が、どこかの人形によく似た響きで呟く。
遠くから祝福の歓声が聞こえてくる。
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