Twitter SS(上遠野作品)
「久し振りにパンケーキを焼いてくれるかい」
前触れなく、脈絡もなく、普通の顔で扉を開けて、彼がヒノオにそう言った。その言葉の通り、それは正しく〝久し振り〟だった。その言葉の正しさだけで、彼はこの八年間の不在を全部帳消しにできるみたいな顔をしていた。
-
「いや。残念ながら夢じゃない」
折り畳まれた長い手脚、カフェオレ色の輪郭と、ふわりと広がる長い髪。閉じた瞼の下の、その目の色を知っている。オスカー・ワイルドの童話に出てきそうな、ビー玉を埋め込まれたみたいな瞳。深い湖と同じ青。どうか悪夢になってくれと願う一秒前。星が降ったあとに似た、金木犀の散らばる地面で。
チェシャ猫のようなやり方で、冗談のような気楽さで、ごろんと転がった〝本人〟の前で、心底どうでも良さそうに。笑い事じゃないのに笑い事みたいに、ひょいと肩を竦めてから。
人形姿をしているそいつは、いつものむかつくやり口通りに、混乱も動転も現実逃避も、紅葉のほんの少しの感慨も、勿体ぶらずに台無しにした。
「そうだな、君の言葉を借りるなら――吾輩が〝本人〟ってことになるのかな、これは?」
*
テラス席はまだいくつか空いていたが、冬に近い温度のせいで、選んで座るような客はあまりいない。
星と人魚のマークが付いた、ホワイトチョコレートとエスプレッソのラテは温かくて甘く、冷えた空気を白く溶かしている。溶かしているだけで、実はそこまで寒さの役に立たないその飲み物を、包むようにして手を温めた。熱を移したくて耳に触れる。イヤホンがよく見えるようにと髪を掛けているから、晒した右耳は凍りそうに冷たい。
薄いピンクのイヤホンはワイヤレスの耳掛け式で、以前手伝った(手伝わされた)撮影の仕事でもらったものだ。自分には少し可愛らしすぎるような気がしてあまり使っていなかったのだが、今はなるべく目立って見えそうな方が都合がよかった。トレイを持った人が空いた席を探して店外に出てきたのをちらりと見て、紅葉はテーブルの上のスマートフォンを人差し指で軽く叩く。スリープモードが解かれた先の、ありふれたデザインの通話画面。不審がるような様子はなく、その人は空いたテーブルと寒さを比べて諦めた、みたいな表情だけを浮かべて紅葉の横を通り過ぎたけれど――通話中だとひとめでわかるその画面は、けれどただのスクリーンショットで、本当は電波などどこにも届いていないのだった。――こいつのせいで、
こいつのせいでいらない誤魔化し方が上手くなっている、と思って腹立たしいような気持ちになる。トレイの人がそそくさと中に戻っていくのを、羨ましさと恨めしさの混じる視線で見送ったら、全部の原因が呑気そうな調子で肩を竦めた。寒さなど何とも思っていなさそうな寛いだ声。
「ああ、やっぱり寒いよなあ。君は中に入らなくていいのか? いよいよ風邪引いちゃうぜ」
「誰のせいよ、誰の……!」
「少なくとも吾輩のせいではないよな。一応ほら、こうして心配している訳だし」
「ど、っの口が!」
怒鳴って、視線を集めてしまったことに気付いて、ああもう、とガラスの画面をダシダシ叩いてスクリーンショットに戻した。本当に最悪、とスマートフォンを見ながら毒づき、この流れをここ数日延々とやっていることを思い返してうんざりとする。何でこんなことに、と頭が痛くなって、何でも何も、と思った。
何でも何も、こんな面倒な状況なんて、こいつ以外が起こす訳がない。
そう――とても面倒な状況なのだった、実際。
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何がどうしてこうなったのか紅葉にはさっぱり理解出来ないが、とにかく事実は事実として話を進めるしかないようだった。そこはまあまあ背が高い、くらいのマンションの最上階で、ここよりも高い建物はいくらでもあったはずなのに、窓の外はやはり色紙に似た冗談みたいな空が見える。壁をぶち抜かれたワンフロアと、自分と術者と人形しかいない空間。どこかのホテルのようなロケーションを揃えて、しかしあの時と違って、別にがらんとしては見えない。どうしてがらんとしていないのかといえば、人形の体がワンフロアの三分の二ほどを占めていたからだ。
シンプルハートは縮尺の狂ったハズレ君から顔を背けて、ベランダに引っ張り出したガーデンチェアでアイスコーヒーを飲んでいた。
「バグったんだ」
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俺は多分、あんたたちに憧れのような気持ちを抱いているのかもしれない。
打ち明けるようにそう言ったカレイドスコープに、マロゥボーンは不思議そうに首を傾げ、パニックキュートはくすくすと笑い声を上げた。
「なんだいなんだい、カレイドスコープ。それは弱音かな。らしくないね」
「弱音? そうなのか、カレイドスコープ」
「ようするにねマロゥボーン、彼はオキシジェンと、僕らみたいな関係を築きたいと思っているんだよ」
「そうなのか?」
「……かもしれないが、無理だろう。わかっているさ、それは」
「僕に言わせればね、カレイドスコープ。むしろ君に対して過保護すぎるんじゃないかと思うよ、彼は。オキシジェンはね」
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もはやあの容れ物は砂の城のように形を崩していたが、散り散りになった意識の方の、その断片はふと目を覚ました。
膨大な認識を延々と処理し続けていた、あの解析機関こそをオキシジェンと呼ぶのであれば、断片はもちろんそれではなかった。グラスの縁まで並々と注がれるような認識の重さすら、溢れさせることなく制御しきったオキシジェンの、オキシジェンだった断片は、しかしもうそのかつては確かに引き受けていたはずの認識を、抱えられる程の容量を持ち合わせることができない程度には矮小だった。断片はそれを残念だとは思わなかったが、やや気が咎めるような心地はしていた。
断片が保持できたのは、ごく瑣末な、きっと本来のオキシジェンならば取るに足るとは見做さなかっただろう認識だけだった。それしか断片には残っていないのだから、必然的に断片が意識を向けられるのは、その取るに足らない認識についてになってしまうのだが、けれどそういった類のものにこの意識を割くのは、何かそう、ひどく贅沢なことをしているようで気が咎めるのだった。
とはいえ、事実断片が抱えていられたのはその認識だけだったので、断片はやや苦笑を浮かべたいような気持ちでもって、その認識をすくい上げた。
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ガチャ、と扉を開けて、シンプルハートがちょっと振り向く。目が合ったまま数拍の沈黙。面倒そうな色の瞳は、なんだか少し呆れている。問いかけるような視線は「こいつどうする気なんだ?」とでも言いたげで、紅葉はなんだ、と眉を寄せて部屋の奥へと視線を向ける。
開いた扉の向こう。オレンジ色の光に照らされた、ツルツルとしたタイルと鏡。少しだけ見えているシャワーヘッド。
「…………!」
紅葉は慌てて扉を閉めた。
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クズっちはまだ泣いている。
「だから、その……本当に悪かったよ」
「……うる、さい、わよ……」
途切れ途切れの言葉はもちろん、彼女がしゃくりあげるせいだ。懸命に堪えようとしているらしい嗚咽は、それでも呼吸の合間にいくつかを溢れ落としてしまっていて、その度に彼女は酷く不本意そうな表情でぎゅうと唇を噛み直している。
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「――――クズっち!」
もう随分と呼ぶ人を失くしていたその呼び方が、はっきりと響いて弾かれたように振り向いた。振り向いた視界が白に埋もれる。花の匂いがいきなり溢れて、その甘さに息を呑む暇なく抱き締められた。ぎゅうとしたその腕の中で一瞬息ができなくなるかと思ったが、そんな暇もなく身体がぶんと振り回されて、ふわっとした浮遊感とともに、気づいたら腕に椅子に座るように乗せられていた。視界が高い。
「ただいま!」
呆れるくらいに鮮やかな声はひどく楽しげで、紅葉は驚くよりも先に笑ってしまった。
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「いいや……そうはならない」
「あん?」
「僕が、おまえの役に立つことはない……おまえが僕の役には立たないように」
吐息にさえかき消されそうな声と、その囁きには不釣り合いなほどの、酷く突き放すような視線。
ガラスの壁を隔てるような透明で容赦のないその一線に、フォルテッシモは怪訝そうに眉を顰めた。
「あ? なんで俺がおまえの役に立たなきゃなんねーんだ、馬鹿馬鹿しい――ふん、運命だと?」
くだらない、と言いたげな様子で言葉を切り。フォルテッシモは心底呆れ切ったように鼻を鳴らして、そして言う。
「どうにもならない状況に陥ったとき、〝運を天に任せた〟なんて言い方をするヤツがいるが、それは別に潔いとかそういうことじゃない。そいつはつまるところ、自分で何かを決定し、その責任を引き受けることをしたくないだけだ。運命というものを隠れ蓑にして、自分で背負うべき責任を運命にどう押し付けられるかというつまらない責任逃れしか考えることができない腰抜けだ。責任を運命に押し付けるだと? まったく――おまえは誰に向かってものを言ってるんだ? この俺が、そんなせこい真似をするわけがないだろう」
迷いも逡巡もなく、ただ当然のように言い放ったフォルテッシモに、オキシジェンはしばし逡巡するように目を細め――やがてふっと、空気すら振るわせられないほどの、ささやかなため息をつき。
「おまえのそれは、責任感ではなく、ただ強引なだけだ……」
そう、苦笑とも微笑ともつかない顔で呟いた。
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「今日のデザート、パンプキンパイなんだって。初めて食べる」
「ああ、今日はハロウィンだからだろうな。ヒノオは学校で、トリックオアトリート、とかやったのかい」
「え? やってないけど……。ムビョウはやったの? やるわけないか」
「いや、私は毎年やっているよ。まあ、大体アララギ相手にだが」
「えええ? アララギさんに?」
「ああ。彼女はお菓子なんて持ち歩かないから、私がそういうとその場で作ってくれるんだ。出来立てのお菓子が食べられるというわけだな」
「作ってくれないときはどうするの?」
「彼女の夕食に、うっかり合成薬を入れてしまうかも、と言ったんだ」
「毎年アララギさんのこと脅してるの?」
「そういえば、今年は珍しく、彼女の方から言ってきたな。トリックオアトリート。私にもお菓子を持ち歩く習慣はないから、正直に持ってないと答えたら、そうですか、とか言われて終わったが」
「じゃあ、いたずらされてないんだ。アララギさんは優しいね」
「まあ、少し残念ではあるな。彼女のいたずらにはちょっと興味があったから」
飄々と言いながら、ムビョウがコーヒーに砂糖を淹れてかき混ぜる。と、焼き上がったパンプキンパイを手に、アララギさんがキッチンから出てきた。小首を傾げ、ムビョウの方を向く。
「していますよ、いたずら」
「え?」
「塩と砂糖、入れ替えておきました」
「……え?」
「興味があったんでしょう?」
「…………」
コーヒーカップを口元まで持っていったまま固まっていたムビョウに、アララギさんが肩を竦めた。
「嘘ですよ。塩なんて入れていません」
毎年毎年疑心暗鬼に夕食を食べるのも疲れるので、と言いながら、アララギさんが手際よくパイを切り分けてくれる。ムビョウはしばし沈黙して、それから長めのため息をついた。
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気に入らない、いけ好かない、苛立たしい。 目障りで疎ましくてどうしようもなく――心のどこかに引っかかっていた、あのクラスメイトへの感情を。
頭の中を上書きしていく膨大な数式が、瞬きの間に整理して、整然とした思考の中心を雷に似た命令が貫いた。
唯一無二の世界の守護者。ナイトウォッチの切り札。この身を捧ぐ最後の希望。安全装置のスイッチが上がる音がして――きっともう思い出せない。
恒点観測機〈ビヨンド・シーカー〉三三〇五は、宙を貫く消去デバイスの、弾丸の軌道に一切の躊躇いもなく飛び込んで――まだ少しだけ微睡む意識が、突き飛ばした工藤の表情を見た気がした。
「――――――ヨン!」
厳しい声色で、兵吾が怒鳴った。ヨンは肩を竦めただけだった。
「仕方がないわ。私達が……彼が、あなたを守るのは当然のことだもの。たとえこの夢の中でのあなたと彼が――及川由次が、工藤兵吾のことを、どんなに大嫌いだったとしても」
-
その底なしの水溜まりに踏み出しかければ、腕を掴まれ引き戻された。
「落ちる気か」
見知った声に振り返れば、やはりそこには見知った顔があった。記憶と違いのない形を整えて、声だけがはっきりと明瞭だ。あの捉えられない希薄さではなく、瞳の輝き、髪の一本に至るまで醒めるような鮮烈さがある。
「いや、落ちるっつーよりは、潜るみたいな気持ちなんだが」
「潜ってどうするつもりだ」
「おまえが沈めたおまえを見つけるつもりだ」
長谷部が答えると、ハリウッドの姿をしたそいつは、その明るい色の目を少し細めた。
「おまえもハリウッドなんだろう? 俺の知ってるあいつよりも随分と明るい感じだが。おまえじゃあいつの居場所はわからねーのか?」
「わからない。僕はただの残響だ。この水溜まりにいる僕は、力と心中するつもりだったからな。ここにいる僕には何も残っていない」
「じゃあ、どうしておまえは存在しているんだ? あいつが本当に消えようとしたなら、おまえみたいなのを残すようなヘマはしないはずだが」
「僕は恐らく異物だ」
ハリウッドのようなそいつは、ハリウッドの顔で、しかしあいつが決して出さないような鮮やかな声で言った。
「この僕――オキシジェンを構成するすべての、そのどれとも混じらない異物。影響も痕跡も思いも願いもすべて残らず拭い去ることを選んだオキシジェンの、その責任の果たし方を唯一許さなかった部分。オキシジェンという男の心では、決して持ち得ることのない歯止め――それが僕だ。有り得るはずのない感情、存在するはずのない雑音、消そうとしても消せなかった唯一の――だから弾き出されてここにいる。僕は〝僕〟の中にあったあんたの意思だ」
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かつかつかつ、と小気味良い音で、黒板に白い文字が刻まれていく。久嵐舞惟はそれを真っ直ぐに眺めている。机に正しく開かれた教科書とノートでは、シャープペンシルやマーカーが滑らかに文字やラインを書き連ねている。さて今は何の授業だったか。なまぬるい午後の教室で、だらりと弛緩した生徒たちの中で、舞惟はやはり壇上に立つ教師を真っ直ぐに眺めながら、心の中で首をかしげる。
〝秘すれば花〟。
たぶん、歴史だか国語だかの講義なのだろう。
とある歴史のとある国語の世界では、それは酷く重要らしい。秘すれば花。秘密にすれば花。黒板に書かれたその文字は赤い。
(秘密、ね)
統和機構には秘密が多い。
誰かを出し抜くために素知らぬふりをしているものから、知ってしまった瞬間に処分されるような物騒なものまで。舞惟はもちろん関わる気はない。自分には自分の領分がある。踏み越えないのは戦士として当然で、それをわざわざ踏み越えて、秘されたもの全てを自分のものにしようと思いこむのは愚か者のすることだ。だから。だけど。舞惟はときどきわからない。それでも秘密を暴きたがる者が、どうして斯くも多いことか。秘密というのは――それほどまでに、人の好奇を煽ってしまうものなのだろうか。
「…………」
舞惟はそっと視線を向ける。とてもとても注意深い、虫の羽音よりも薄く繊細な視線でそっと。今まで一度たりとも悟られたことはないけれど、それでも尚ぜったいに、気付かれることのないように。
葛羽紅葉――私のクラスメイトに。
薄い色の髪の下、紅葉の細く色の白い首もとには、今はそれより白い白い包帯を巻いている。
あの時。あの結婚式の日。
守り損なったのは、多分、さよならを言いたくなかったからで。
自分の手の中の秘密はそれほど多くはない。多くはないが、しかしそれは、それだけは隠し通したいと思っているということなのだろう。
秘すれば花。秘密にすれば花。大事なことは隠さないといけないならば、秘密にしないと花になれないのならば、ならば――この秘密がいつか白日の下に晒されてしまったならば、私は、彼女は、いったいどうなるのだろう。
「――――」
ちかりと走った明るさに反応したのは瞬きまでで、もちろん動きを止めるような迂闊なことはしない。手元の携帯に微かにちらつく緑の光は、ありふれた指令の通達で、ホルニッセは静かに左手を挙げる。チョークの音がかつんと止まる。
「ん。どうしました? 久嵐さん」
「すみません、ちょっと気持ちが悪くて……保健室に行ってもいいですか?」
弱々しくも滑らかに言って、久嵐舞惟はすんなりと女子高校生を退場する。もとより気づいていたその心配そうな少女の表情に、今気づいた、というフリをして視線を合わせ、心配しないで、という風に微笑んでみせる。
黒板に、続きを聞き損ねた言葉が残っている。
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銀のクロッシュをかぶせた食事のトレイを片手に、ベルボーイが朱巳の部屋の前に立った。こんこん、と軽いノックをする。
「九連内様。お食事をお持ち致しました」
ドア越しに声をかけるが、部屋の中から返事はない。しん、と静まり返っている。
「――九連内様」
ベルボーイがもう一度、確かめるように名前を呼んだ。やはり返事はない。物音すらも聴こえないその部屋に、ベルボーイは微かに頷いた。すっと胸元に手を入れて、銀色の鍵を取り出す。ここではごくありふれた、ホテルのルームキーの一つ――それを朱巳の部屋の鍵穴に差し込んで、カチリと音を立てさせると、ベルボーイはごく自然な表情のままでためらいなくドアを押した。
部屋にはもちろん甘ったるい匂いが充満している。
合成人間リトル・クイニー――ベルボーイに扮していた彼の能力は、一言でいうなら昏睡だ。特殊な性質を持つ彼自身の体液を気化、もしくは液状のままで摂取させて、対象を眠らせるというのが、彼が命じられる主な役割である。ただしそれは与えられた任務が平穏なものの場合であり、本質的には極めて強力な、麻薬に近い作用をもたらす彼の体液は、生成の手順によってはその皮膚に垂らすだけで、相手を廃人にさせる薬として用いることもできる。
朱巳の部屋は、既に彼の生成した気体を満たしていた。部屋にたちこめる、ケーキのスポンジを焼いているときのような甘く重たい匂いは、彼の力の特性の一つだ。効果が強まるほどに甘い匂いが深くなる――彼の造り出す気体は、それ自体は無害かつ無味無臭だが、呼吸などで他者の体内に取り込まれ、自分とは異なる体液と混ざり合った時点で化合し、その本質を剥き出しにする。
つまり対象者が息をした時点で、彼の能力は発症するということだ。だから当然、朱巳がこの部屋に入った時点で、彼の能力に侵されている――どろりと甘い匂いの濃さからみても、かなり症状は進んでいるだろう。それこそ崩れ落ちるように、部屋のどこかで倒れているはずだ。
「ふん……」
リトル・クイニーは鼻を鳴らすと、クロッシュを持ち上げた。麗々しい食事が並べられているはずのその中にあったものは、艶消しの拳銃と、いくつかの彼の薬液である。
クイニーは別に、強大な破壊を撒き散らしていく戦闘用合成人間のような力は持っていない。せいぜい人間レベルの戦闘力を身につけているだけだ。だが上層部、いやむしろ統和機構全体をひっくるめた中でも、圧倒的に戦闘能力のなく、強化合成もされていないレイン・オン・フライディ相手ならば、彼女の――実際に見たことがないのでどんな性質のものなのかはクイニーは知らないが――能力を使われる前に無力化してしまえば、後はこういったごく普通の凶器だけで、充分にどうにでもなる。
今回のクイニーの役割は、レイン・オン・フライディがなにやらこそこそとやっている計画の内容を吐かせ、旨みがありそうならば横取りし、レインの方は処理をする――というものだ。なのでとりあえず今からレインを叩き起こし、クイニーの能力のせいでしばらくはまともに動けないレインを自白剤を使いつつ尋問し、こちら側につかせる為に適当に拷問し、それが無理そうならば――最終的には殺してしまう。そういうことになっている。食器のトレイを無造作に置き、クイニーは拳銃を手に取った。
甘い匂いがこもる部屋の中を進んでいくと案の定、大きく開いた寝室の扉のすぐ下で、転がっている足を見つけた。クイニーが近付いていき――一瞬反応できなかった。
(なっ――)
ブン、と蹴り出された足にもつれて体を大きく傾がせながら、クイニーはほとんど反射で引き金を引いた。ガンガンガン、と銃声が響く。レイン・オン・フライディが眠っていた、いや、眠っていると思っていた場所にばっと顔を向けて――レインではない。
「オキシジェン……!」
――引き金を、
引こうとしたがもう遅かった。跳ね上がったオキシジェンの足は、拳銃を持つクイニーの右手首を強引に圧し折った。べきりといやにはっきりと、骨が砕けた音がする。襲われた激痛に呻きながら、クイニーは懐からガラス瓶を掴み出した。それはしかるべき〝生成の手順〟を踏まれた、相手を一瞬で廃人にさせる彼の薬液で、その恐るべき毒薬を、瓶ごと砕け散らせかけるために、クイニーは思い切りオキシジェンの顔面に向かって投げつけた――オキシジェンは避けなかった。
――ぱた、ぱた――と、その液体を滴らせながら、平然とした顔で自分を見下ろすオキシジェンを、派手な回し蹴りでぶっ飛ばされて、寝室の壁際にしたたかに打ちつけられてぼろ雑巾のような有り様になったクイニーは、全身の痛みに気が遠くなりかけながらも呆然と見つめた。
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「そうだ、今日の俺の運勢はどんなもんだ?」
コーヒーのマグカップから顔を上げてそう尋ねた長谷部に、柊は微かに首を傾げた。
もちろん柊は占い師などではない。彼の職業は画家――芸術家である。
ひょんなことから彼と知り合い、まあ結構仲良く――多分――なって、そろそろ半年経つ。そのそこそこ長い期間の中で、柊について長谷部が知ったことといえば、絵がものすごく上手い、やたら影が薄い、食がめちゃくちゃ細い、料理がまったくできない……くらいのものなのだったが、最近、どうやら自分は、柊の特技を新たに発見したらしいのだ。
二週間ぐらい前のことだ。そのとき柊はずいぶんと古そうな本を読んでいて、長谷部は「何の本だ?」と尋ねてみた。茶色の革表紙のその本のタイトルは、凝った金色の装飾文字で書かれていたにはいたが、それが何語なのかも長谷部にはちょっと見当がつかなかった。だから興味を引かれて訊いてみたのだが――柊は、やはり微かに首を傾げて、それからジンクスを一つ披露してくれたのだった。
その場は長谷部がほおんと頷きつつ、なるほど占いの本か何かか、と思って終わった。ただ、いつも無口な隣人が、雑誌やニュースの占いコーナーでよく見るようなコメントをする、というのが妙に面白くて、それから何度もせがんでいるうちに――彼の占い(ジンクスか?)は、なんだかよく当たることに気がついた。
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Michaelmas――九月二十九日は天使の日らしい。洋菓子の日であり、菓子職人を守護する大天使、ミカエル様の祝日だ。
クリスマスやハロウィン、バレンタインデーなどには知名度が劣るものの、製菓業界としては一応これも、あやかっておくべき行事の一つということらしかった。もちろん紅葉はそんなことは、興味がないので知らなかったが。
「――だから、今日は舞惟と一緒にケーキを食べに行く約束をしてるんだってば。そんなこと急に言われても困るわよ」
ミカエルマスどうたら、という母親の得意げな説明を聞かされながら、紅葉はうんざりとした顔で抗議の言葉を繰り返した。九月二十九日。天使の日だとかお菓子の日だとかいう前にまず、今日は紅葉の誕生日である。前々から楽しみにして、予定を開けておいたのに。
「ケーキが食べたいならいくらでも食べれるわよ。スイーツイベントなんだから」
「そういうことじゃなくってさ……」
今朝、いきなり母親に言われたのは、都内のホテルで広告用の写真を撮られてこいということだった。女性向けブランドがケーキ屋を企画したのだが、広告塔のモデルが腹痛で入院してしまったのだという。
「ケーキの広告塔のモデルが、腹痛で入院……? ……ってなんか、イメージ的にまずいんじゃないの」
「そうなのよ。だから結局、そのモデルの子を撮影してた写真は全部使えなくなっちゃって、でもその後も、その子の写真を使う使わないで結構揉めたらしいのよね」
それでようやく代わりのモデルを使うことで纏まって、代役探しを始めたものの、見つからないまま今日の開店記念パーティーの日になってしまった、ということらしい。パーティーは夜からなので、それまでには絶対に、宣伝用の写真を用意しないといけないのだという。そんなギリギリなら宣伝したってしょうがないだろうと思うのだが。
紅葉に回って来たのは、そのモデル役の代わりだった。なんで私がと渋ってみたが、母親の方は話を勝手に引き受けてしまったらしい。
「それに、あんたがその子と遊びに行くのはどうせ放課後でしょう? 撮影は十時からだから、急げば間に合うわよ。学校は休めばいいわ」
「そんな無責任な」
「表に車を待たせてあるから、早くしなさいよ。ああ、制服はやめなさいね。もしかしたら私服のままで写真撮るかもしれないから」
「……」
……結局そのまま押し切られ、紅葉は迎えの車に乗せられて、そのホテルのパーティー会場とやらに連れて行かれることになってしまった。
広々とした会場はペールグリーンと淡いピンク色で纏められ、テーブルの皿やスタンドには、宝石のように凝ったケーキがきらきらと並べられている。さすがに有名ブランドプロデュースと言うべきか、可憐な様相はいかにも女の子が好きそうな感じだったが、無理矢理連れて来られて朝食も食べ損ねているこの状況では、華やかな飾り付けも逆に腹立たしい。
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ガシャンと派手に硝子が割れる音。何事だと思う間もなく強く鼻を付いた、むせ返りそうに甘い匂い。紅葉がぎょっとして顔を上げれば視界の端に見知った気配が横切って、見つけた途端に駈け出していた。
「ま、待ちなさい!」
白い廊下に走り出ると、一瞬早く人影の足元が角を曲がるのが見えた。急いで追いかけてまた曲がり角。いつもだったら振り切られてしまっているタイミングだが、今回は意外にも距離を縮められたらしい。もう一度翻った服の裾は手が届きそうで、紅葉はほとんどぶつかるような勢いで手を伸ばし――酷く珍しい、焦ったような舌打ちを聞いた。
「――くっ……」
勢い余って転んでいた。けれど思ったほどには痛くはない。どうやらそいつは自分を庇って下敷きになったらしいと、聞こえた呻き声に慌てて体を起こせば――――そこで紅葉の目が点になった。
「君は……なんだ……吾輩を見たら追いかけなければ気が済まないのか?」
「えっ……な……」
知っているよりも声が高い。苦り切っているのに澄んだボーイソプラノに、紅葉の声が困惑を重ねた。
「ち……小さい……?」
「……うるさいぞ、クズっち」
雰囲気だけはそのままに、酷く幼いシャーマン・シンプルハートが、頭を押さえながらバツが悪そうにふいと目をそらした。
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――三日後、舞阪が紅葉の元にやって来たとき、紅葉は特に聞かれて困るようなこともなかったので、いつかのように事実を事実としてそのまますべて話してやった。今回はテープレコーダー無しの手ぶらの舞阪は、一通り紅葉の話を聞き終わると、眉を顰めて首を傾げた。
「――なのに、おまえはシャーマン・シンプルハートと一緒に逃げなかったっていうのか? 何故だ? せっかく統和機構から自由になれるチャンスだったんだろう。もちろん見つかったらただじゃすまねーが、まあ大体死ぬが、話を聞いた限りじゃおまえはそういう、なんつーか、見つかったら怖いみたいな心配をしてるよーには見えねーしな……いや、別に裏切れっつってるわけじゃないが、俺としては正直、おまえが今ここでこうやって、俺の前に座ってるっつーことの方が不可解なんだよな」
舞阪が理解に苦しむ、という顔をしたので、今まで台本でも読むように淡々と説明していた紅葉は、そこでようやく、はあっ――と心底うんざりした顔を明け透けにしてため息をついた。
「だって舞阪さん、あいつが私に会いに来たとき、何て言ったか知ってます? 『俺と一緒に来るか?』ですよ? どのツラ下げて王子様気取りなのよって感じで。カッコつけてるのが見え見えで、ムカついたから断りました。なんか色々悪いと思ってたみたいで、それの埋め合わせみたいな感じっぽかったですけど、私も頭にきて。だからこれは嫌がらせです。一度真剣に反省すればいいんですよあいつ、まったく」
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「バカンスに行きたい」
あまり座り心地のよくないソファで足を投げ出してふんぞり返っているフォルテッシモが、地球儀をくるくると回しながら言った。この場所も現場の一つであるので勝手に物を動かすなとも思ったが、一応は任務の方は片付き終わっており、部屋の持ち主だった人間ももはや帰ってくることもないので、ユージンはまあいいかと思い直してため息を噛み潰した。現場検証の担当には気の毒だろうが。
「勝手に行けばいい」
顔を見ずに言い捨てる。自分はフォルテッシモの監視役ではないし、どうせ止めたって聞くはずもない。勝手にどこへでも行けばいいと思う。そもそも今までだって行き先も告げずにふらふらと出歩いているのだ。何を今更、と呆れ、それから眉を寄せた。何を今さら。まさか自分の許可をもらっておこうという訳でもあるまいし。真意を測ろうと視線を向けかければ、ユージンの不審の色を読んだように、フォルテッシモが先に口を開いた。
「一緒に来いよ」
「遠慮する」
「そういうとは思ったが、まあ一応は誘ってみようと思ってな」
「いらん気遣いだったな」
フォルテッシモはまあな、と応じて地球儀をぽいとソファのクッションに向けて放り捨てた。
「んじゃ行くぞ」
「は?」
一瞬こいつが何を言ったか理解出来ずに、もしや本気で聞き違えたかと思って顔を見れば、フォルテッシモはけろりとした顔で肩をすくめた。
「一応は誘ってみようと思ったんだ。どうせ連れていくから同じっちゃ同じなんだが、おまえに来る気があるなら、俺の片手が空くからな」
「……僕をか? 何をする気だ?」
「トランクの中におまえを詰める」
たっぷり三秒、ユージンは沈黙を数えた。
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「……なんでもないわよ」
「なんでもないってこたねーだろう。君にそういう顔をされるのはちょっと気になるもんでな」
「あんたに人の複雑な気持ちとか表情とか気付けるの? 自分はいっつも何考えてるかわかんない顔ですましてるくせに」
「それについてはよくわからねーが、見当をつけることはできるだろ? 特に君は今、というかさっきからずっと、なんかどーでもいいよーなことを気にしてるみたいだし」
「……なんであんたは当たり前にわかりそうなことにはなぜなぜうるさいのに、変なところだけ鋭いのよ?」
言い返せば、その男はぱちりと瞬きを一つして、片手を広げ上げて肩をすくめた。
「なんでって、そりゃ勿論吾輩が君に惚れているからに決まっているだろう」
当然のように言ってのけて、紅葉は一瞬熱を上げることも忘れた。
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わざわざ目の前までトランクを引き転がしてやったのだったが、男はそちらには一切視線を向けず、顔を顰めたまま自分の方ばかり見ているので、ユージンは仕方なく二度目になる台詞を繰り返すことにした。
「だから……」
不毛に淀んだ空気の中で、ぱちんと軽い音が明るく響く。元々が申し訳程度の支えだったため、中身は施錠を外した瞬間に、トランクを派手な角度に傾げて転がり出た。べしゃ、と地面に落ちて、そのままげぼげぼと胃の中の物を散らかし始める。
「この荷物を、指定の場所まで運ぶことがおまえの任務だ」
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「……なんだこりゃ」
起き抜けにばらりと降ってきた煮干しの雨に、怪訝な声を漏らして眉を寄せた。ベッド代わりにしていたソファーが煮干しまみれになっている。無論フォルテッシモに覚えはない。新手の悪戯の類だろうかと、少し考えてすぐに否定する。悪戯ならば諸手を上げて大歓迎するところだが、あの男はそういう気の利いた遊びを仕掛けてくるようなタイプではない。ではこれは一体どういう状態なのかと、フォルテッシモは顔を顰める。意味も理由もよくわからないままに煮干しを浴びたって面白くもなんともない。彼はネコではないし。
「……猫」
引っかかるものを感じて呟いた。改めてぐるりと回りを見渡すと、ソファの下に見慣れたコートがずり落ちている。片手で持ち上げれば、ポケットから覗く封の切られた煮干しの小袋から続投がバラバラと落ちてきた。暫し沈黙。
「……成程、浮気かな?」
その穏当ではない言葉を、何故か妙な気分の良さを含ませた声でひとりごちると、彼は自分の体躯にはいささか大きすぎるそのコートへ、鼻歌混じりに腕を通した。
-
「そうだ、ずっと怪しいと思っていた」
「おまえが殺したんじゃないのか?!」
「アリバイだってないぞ」
(ま、ママ……?)
母親は気まずそうに目をそらしたまま何も言わない。そしてシンプルハートの方は、なんの表情を浮かべないまま黙って罵声を浴びている。
(な、なんで――)
紅葉が混乱している間にも、シンプルハートを問い質す声はどんどん荒々しくなっていく。
「おい、もうこいつが犯人なんじゃないのか?」
「そうだそうだ!」
「おまえが殺したんだろう!?」
「――――なんとか言え!」
責め立てていた一人の男が、彼の胸倉を乱暴に掴んで――はっ、と紅葉が我に返ったのは、大声で叫んだ後だった。
「ち……違います!」
空気を割った、その悲鳴のような大声に、周りの人々が不意を突かれて一斉に視線を声の方へと向けた。突き刺さるような視線を一度に浴びせられて紅葉は怯むが、歯をくいしばるように堪えて、そして無理矢理に言葉を続ける。
「そ、その人は私のママと一緒にいたんです! その、手記の場所を知っているかどうかを訊かれていて……! だからその人は、その人にはアリバイがあるんです!」
ふっ、とシンプルハートがこちらを見た。
虚をつかれたように、一瞬皆が押し黙った。すべての目が、一度戸惑うように母親に向けられて、それからシンプルハートに戻る。
「そ……そうなのか?」
おそるおそる、という風に手を緩めながら、胸倉を掴んでいた男性が、窺うように問いかけた。そうしてそこで初めてシンプルハートは口を開けた。
「――――そうだ」
周りの空気が困惑と、気まずそうな沈黙に弛緩する。
「な、なんだ、そうだったのか……あんた、そういうことはちゃんと言えよ」
「い、いえ、そうじゃなくて、私はただ―――」
母親の弁解めいた言葉を訊きながら、紅葉は両手をぎりぎりと握りしめていた。
-
「それじゃあ後でな」
てこてこと歩いて行ってしまおうとする。それがあまりにも自然だったので、紅葉は一瞬見送りかけてしまって、それからはっと気付いてとても焦った。
「ま、待ちなさい!」
慌てて捕まえると、ハズレ君は特に抵抗することなく、大人しく紅葉の手の中に収まったまま、けれど振り返ってちょっと首を傾げた。
「なんだ? クズっち」
「な、なんだじゃないわよ! 何するつもりよ!?」
「いや、暇つぶしに屋敷のなかをぶらついてみるのもいいかなあと思って」
「いいわけないでしょーが! あんたみたいなのがうろついてるのをみられたら、それこそ大騒ぎになっちゃうじゃない!」
「吾輩がうろついてちゃだめなのか?」
「当たり前でしょ!」
「じゃあ、君が吾輩を連れて行ってくれ」
「へっ?」
さらりと言われたなめらかな科白の意味が一瞬わからずに、ぽかんとなって二の句は途切れた。呆気にとられて言葉が止まってしまった紅葉の様子に構わずに、ハズレ君はうんうん、と二度頷いた。
「吾輩だけだとだめなんだったら、君に連れて行ってもらえばいいんだろ?」
軽い調子で言われてうっと言葉に詰まる。断りたい。断りたいが、しかしそうしたらこのやたら悪目立ちするに違いない人形は一人でトコトコうろつき回ってしまうだろう。誰かに見つかったら紅葉がいろいろ質問攻めに遭う羽目になるのは目に見えている。それにそうなってしまったとして、紅葉だってこの奇妙さで出来たようなハズレ君人形の、説明なんて出来るはずがないのだ。
「…う、うう…」
紅葉は散々迷った末に、小さなポーチを肩にかけた。
「……中からチャックとか開けて勝手に出ていったりしないでよ」
「もちろん。ちゃんと大人しくしておくさ」
簡単に頷かれても正直全然信用ならないが、もうどうしたって仕方がないので紅葉ははあ、とため息をついた。
-
「鋏を使えばいいんじゃないのか?」
「ハサミなんてどこに…」
渋い顔で紅葉が言うと、ハズレ君はちょっとポーチの奥に引っ込んで、それからぴょこんとまた顔を出した。
「はい、ハサミ」
「はっ?」
なんでもないことのように言う。プラスチックの柄が付いた、銀色の刃先がきらきらするそれは確かに当然のように鋏で、紅葉はぎょっと目を見開いた。「な、なん、」と口をぱくぱくとさせるがうまく言葉が続かない。一体どこから、このポーチはハズレ君以外入れていないはずであるのに。
訳がわからずうろたえる紅葉を余所に、ポーチの中からハズレ君は、ぷらぷらと呑気な調子で鋏を揺らす。
「ほらほら、受け取らないと仕舞っちゃうぜ」
「し、しまうってどこに……」
「ん? ポーチの中に」
けろりと言う。当たり前だろう、とでも言いたげな、その堂々と人を食ったような顔に、紅葉は真面目に悩んでいる自分が相当な馬鹿みたいに思えてきた。
「……わかったわよ、もういいわ」
付いていこうとするのをやめて、鋏を受け取り縄の結び目をしゃきんと切る。あんなに苦労していたのが馬鹿馬鹿しくなるほど呆気なく、足の拘束は簡単に解けた。縛られた痕はもう少し残りそうだし、じたばたしたせいで擦れてしまったところはまだ少しひりつくが、そう大した怪我でもない。埃を払って立ち上がり、ずれた靴下を引っ張り上げる。
やはり少し気になるので訊いてみた。
「……このポーチの中ってどうなってるの?」
「君のポーチなんだから、君の方が詳しいだろ?」
「……おやつとか入ってるのかな」
「ああ、そういう。いや、あいにく今はガムしか持ってないな。結構辛いけど。食べる?」
「えー……辛いならいらないわ」
「今度は何か用意しておくよ。ケーキでいい?」
「なんかつぶれちゃいそうね……」
相変わらず意味も仕組みもまったくちっとも理解できなくて、紅葉は少し苦笑した。
それは酷く不本意で、腹立たしいことであるのだが――――この人形が、この他のどんなものよりも、奇妙で不可解なハズレ君が、こうして自分の傍にいるから、自分はこの訳のわからない状況に、なんとか呑み込まれずにいるのだと、紅葉はようやく少し認めた。
-
かつん――――と硬い靴音が部屋に響いた。割れそうな悪意の騒音で塗れたこの部屋の中に堂々と、入ってきた男は一瞬ですべての視線を集め尽くして、しかし彼の視線の先は最初から、そのたった一人の他に向く事はない。
葛羽紅葉に。
開きっ放しの出口に背をもたらせて、扉が閉まる。端と端、他の誰よりも彼女と距離のあるその位置を真正面から取り上げて、シャーマン・シンプルハートはにやりと口元を吊り上げた。
「よぉ、クズっち。なにか困っているみたいだな?」
-
いい加減にしろ何度目だ貴様と声の限りに怒鳴りつければ、そんなつまらんことを数えていられるなんて暇なヤツだなと油を注がれた。正気を疑う切り方をされたハンドルに、タイヤが引き攣れるような音を長く上げる。スピードメーターはずっと変わらず右方向に振り切りっぱなしで、後部座席の任務の荷物は奥歯を鳴らしてガタガタ震え続けている。この車のブレーキだけは、未だ一度も踏まれていない。
急ブレーキとクラクションとそれらを全て掻き消す量の、衝突音の合唱がわあんと響く。事態のど真ん中のその男は、機嫌のよさそうな顔で妙にアップテンポな鼻歌などを歌い始め、その隣でうなだれるユージンは、陽気なメロディと喚く悲鳴を同時に聴かされながら、沈痛な面持ちで地獄かと呻いた。
-
「おまえ、俺の友達になるか?」
「は?」
ぽかん、と不意をつかれたような顔で亨が目を見開いた。フォルテッシモの方はというと、ふざけているわけでもなさそうだがしかし真面目とも言えないような、どうにも何を考えているのか読めない表情で、ただ亨の顔を眺めている。真意の見えない色をした目は、どちらかというと科学者のそれに似ていて、亨は無感動な癖に自分の底まで見透かしてくるような、その奇妙に真っ直ぐな視線に居心地の悪さを感じた。
「とも、だち?」
「そうだ」
咀嚼する為に呟けば、聞き返されたと思ったらしくフォルテッシモが簡単に頷く。言葉の裏がまったく読めずに、亨は少しだけ途方に暮れるような気持ちになった。けれど言葉を表面だけ受け取れば、これは亨にはまったくの問題も無いことなのだった。
「…ああ。よろしく」
受け取り方が分からずにそう返せば、フォルテッシモは変化の無い顔でしばし無言を数えてからすいと右手を上げた。
「そうか。なら握手をしよう」
今度こそ本当に呆気に取られた顔をした亨に、フォルテッシモは平然と言った。
「おまえは俺の初めての友達だ」
-
「結局のところ、おまえの誕生日はいつなんだ」
「さあな、どーでもいいな」
「どうでもいいってことは…ないだろう。俺に教える気がないのか、それとも……本当に知らないのか?」
「今更何を気にしてんだおまえは? ガキじゃあるまいし、誕生日なんてそう大したもんだとも思ってねーよ。それともなんだ、プレゼントでもくれんのか?」
「……おまえに欲しいものなんてあったのか」
「決まっているだろう。おまえとの対決だよ、イナズマ。今はそれ以外に特に欲しいものはねーな……誕生日については別に勿体ぶってるわけじゃねーよ。興味がなかったからいちいち確認してないだけだ」
「……誕生日っつうのは、もう少し、なんつーか……大事に扱うものだろう。これじゃあ……どうも」
「細かいことをうだうだ言うやつだな。そんなにおまえのいう本物の誕生日が気になるなら、いっそその本物ってヤツを祝ってみるか?三六五日毎日欠かさず俺を祝えば、確実におまえのこだわる〝本物の誕生日〟にぶち当たるぜ。いつ当たるかは知らねーがな」
「……それを三六五日か。三六五日毎日おまえと戦わせられたら身が持たないな。それに毎日が誕生日だったら、それはもう誕生日じゃなくて普通の日だろう」
「そーいうことになるな。だったらおまえのこだわってる本物の誕生日とやらを祝おうとするのは不毛だな?」
さも気分が良さそうな顔でくっくと喉を鳴らしながら、その細く小柄な少年の様な男は用意させたローソクの火を一息に吹き消した。
-
水銀(mercury)
原子番号80の元素。元素記号はHg。常温、常圧で凝固しない唯一の金属元素で、銀のような白い光沢を放ち、毒性がある。
――どくどくと溢れている。
床に伏した男の頭から、そこに開いた穴から溢れるそれは赤くはない。白い――白く、光沢を放つそれは例えるならば銀色だった。
銃で撃たれた千条の頭から、止まることなくどくどくと溢れ出して、辺りが銀色に没していく。沈んでいく。視界全てが銀に染まる。まるで海をつくるように、生命を奪うその色が満ちていく。
せんじょう、と叫んだ声は音にはならず、口内に流れ込んだ銀色で呼吸を塞がれた。どろりと重い。
苦し紛れに吐き出した息は、その液体の重さに潰れて泡にすらならなかった。
――電子音がけたたましく響き渡ってはっと目を開けた。がばりと体を起こして夢か、と僅かに上がった息のまま呟く。
汗でシャツはべたりと体に貼り付いて、その感触はまだ夢の銀色を引き摺っているようで吐き気がした。
水圧、水位、水禍、水害――――水銀、
「君が辞書を引くなんて珍しいね」
その単語に、目を留めたタイミングで声をかけられた。
「何を調べているんだい?辞書に書いてある程度のことならば、僕が答えられると思うけど。ああ、それとももしかして、僕には訊き辛いことだったのかな。だったらこの質問は君への配慮に欠けていたかな?」
「いや……」
適度に明るく響く声で、微妙に引っかかることを言う千条に、誰もそんな中学生男子のような事を考えながら辞書を見ちゃいないと、内心でため息をついてぱたんと辞書を閉じた。
確かにこいつに訊く方が、そこらの本を開くよりもずっと効率がいい。辞書の説明はたかだか数行だが、この高性能人間ロボットの頭ならばその事物に纏わる由来やら歴史やら事件やらをずらずらと淀みなく並べ立てて、それこそ辞書の一冊も書けるだろう。極めて優秀なWikipediaのようなものだ。ただそうしなかったのは――恐らく今朝の夢の所為だろうが。
どうするか、と少し逡巡する。配慮どうこう言っていた癖に、千条の目は黙る自分にぴたりと向けられたままで、伊佐はふっと諦めたような息を吐き出した。こいつに配慮が欠けているのは今更だ。
「……水銀が体内に入ったら、どうすればいいんだろうな」
「飲んだのかい?」
間髪を入れずにそう言った千条の声はいつものそれよりやや大きく、目はやけに見開かれていて、それは――この壊滅的に表情の乏しいロボット探偵にしては、なかなかに上出来な〝驚いた顔〟だった。
-
エレクトロニカ(Electronica)
電子音楽や、電子音楽に影響を受けている音楽全般を包括的に表す言葉。
サイレンサー(silencer)
発生した音を減らす装置のこと。
偶然電車の中で楓を見かけた。昨日の話だ。いつもの様にヘッドホンをしてパーカーのフードを深く被り、座席の一番端で手すりにもたれて目を閉じていた。声をかけようとして一瞬迷った――その一瞬の間を掠め取るように、私の知らない女の子がするりとあいつに近付いて、手を伸ばし楓の耳を塞ぐ赤いヘッドホンを取り上げた。
驚いたように顔を上げた楓が、視線の先の女の子を見とめてむすりとする。それをからかうように、屈託なく笑った女の子が何かを言って、楓がそれにつられたように少し笑う――私が見たのはそれだけだ。
別に大したことではない。ない筈なのだけれど。
美少年といっても通りそうだと、無防備に眠るクラスメイトを眺めながら思う。
とろりと深い黒の髪は、やたら滑らかに艶めいていることを除けば女の子よりもむしろ男の子のような短さだし、こいつはやけに華奢というか、薄くて骨っぽいし。
格好も、それこそ四六時中付けっ放しの赤いヘッドホンだって、音を重視して選んだらしくやけに本格的ないかつい見た目で全然女の子らしくない。そういえば前に、どうしてもっと可愛いデザインのものにしなかったのかと尋ねたら、やけにいきいきとした顔でこのヘッドホンはそこらのしょぼいやつなんかよりも反響がどうの音の伸びがどうの澄んだ高音の再現率がどーのと延々語られたけれど、正直言っていることがマニアック過ぎて何がどう凄いのかまったくもって分からなかった(挙句あいつは私の可愛いピンクのイヤホンを鼻で笑って「なにそれ? よくそんな砂嵐みたいな音しか出さないイヤホンなんか使ってられるわね?」などとのたまいやがったので喧嘩になった)。ただそういう、女の子にはだいぶ似つかわしくなさそうなものでも、あいつはなんだか様になる感じでしれっと身に付けてしまえるから結構得をしていると思う。
勿論、楓の笑った顔を見て、男だと勘違いするような奴はいないだろうけれど。だけど、それでもやっぱりこいつを少年みたいなやつだと思ってしまうのは、例えばこういうとき――パーカーのフードを目深に被ってヘッドホンをし、俯きがちに――そう、丁度今のように。
ただ静かに目を閉じる、なんだかつくりものめいている楓に、私は。
たまに――――ドキリとしなくもないからだ。
-
「――――もう死ぬな」
そう言えば、花の無い木にもたれたそいつは薄い色の目だけをゆるりとこちらへ向けて止めた。甘やかな飴色の髪が注ぐ木漏れ日を含んでとろりと揺れる。
太陽はまだ傾き始めたばかりで、肌に絡む温度はぬるま湯に浸るように心地が良い。
このぬるい熱の中ならばさぞ深く眠れるだろうと――――酷く忌々しく思った。
「ああ………もう死ぬな」
温度の無い声はいつものように、ただ平然と言い放った。そして答えたのだからもう用は無いだろうとでも言うように、すいと視線を前に戻して目を閉じた。
彫刻のような男の顔とくぐもっているくせにやけに透明な声は恐ろしく落ち着き払っていて、その苛立たしい程になんら変わらない男の平坦さに、長谷部の視線は一瞬ぎしりと険を帯びた。
-
「付けてくれないかな」
頓着の欠片もなく差し出されたのは、シンプルで黒い筒型のありふれた口紅。握れば手の中に納まるような小さなそれは、けれど彼の台詞と重ねてしまえば僕を慄かせるには十分で、思わずぎくりと身を引いた。
「む――無理だって。自分でやれよ。できるだろ?いつもやってるだろ」
「できればいいんだが、今日は鏡がなくてね。彼女が持ってくるのを忘れてしまったみたいだ。あれが無いと上手く塗れなくてさ」
真っ黒なマントの中で、彼がひょいと肩を竦めてみせる。じゃらじゃらと飾りのついた帽子と衣装はお馴染みのそれだったが、顔にはまだ黒い口紅が引かれておらず真っ白のままだ。
「まあ下には鏡があるから、君に断られたらトイレにでも行けばいいか」
「まてまて……!」
「冗談だよ。いや、駄目かな? もう暗いし、生徒も帰っているんじゃないかな」
冗談とか言いながら声は冗談と本気の区別がつかない調子で、眼は屋上の出口に向いている。正直マジでやりかねないんじゃないか。こんな奇天烈な格好のヤツが女子トイレだか男子トイレだかで口紅を塗ってる様は控え目に言って奇怪極まりないし、もしもそんなところを誰かに見られでもしたらこの学校の七不思議が増える。自分の彼女が幽霊だか怪人だかになるのはごめんだ。いやもうなってはいるのだけど。
ああくそ、と毒づいて寄越せと手を出せば、彼はあっさりとこちらに視線を戻して、やってくれるのかい? とちょいと眉を上げた。わざとらしい。わざとだったかもしれない。
「仕方ないだろうが。いいから貸せよ」
「そうかい。じゃあ頼むよ」
むかつくほどに気楽に言って、目を閉じた彼がすいと上を向いた。高い襟で隠れていた白い頤が無防備に晒されて訳もなく動揺し、動揺したことに打ちのめされる。こいつは外見はどうあれ中身は男であり、男相手にうろたえている自分がなんだかものすごい馬鹿みたいに思えてきて笑えない。ここにきて止めたら決定的に心のどこかに墓穴を掘りそうで、もう知った事かと半ばヤケクソになった。
ぎっ、と恋人のかたちをした顔に向けるとは思えない目つきでその憎たらしい程に可愛らしい顔を睨みつけ、がつんと一歩踏み出す。緊張に震えそうになるのをどうにか堪えて伸ばした手は、触れるその時に一瞬――――一瞬だけ躊躇して、本当に腹立たしい事この上ない。心臓の動悸は収まりそうにないし、こいつはそんな荒れ狂った僕の思いなんてまるでお構いなしに平然と澄ましているしでますます本気でむかついて、僕は薄れない躊躇いを誤魔化すようにできるだけ荒っぽく顎を掴んでぐいと持ち上げた。
-
「いつまで敬語を使ってるつもりだ? ホルニッセ」
意味が呑み込めずにえ、と訊き返すと、彼女の指導者だったその男は、今度ははっきりと苦笑を浮かべた。
「もうそれは必要ないだろう。私はもうおまえの指導官じゃないんだから。これからおまえも同じ指揮官になるんだから、尊敬語やら丁寧語やらを俺に使う必要はもうないんだよ」
そうかもう私は、この強く優秀な彼の、この人の生徒ではないのだなと思うとなんだか妙な心地がした。もう彼を先生として見てはいけないのだという――その事に、寂しいのか、という言葉を思い浮かべたが少し違うような気がした。ではこれはなんなのかと、考えかけてまあいいかと目を閉じた。どうせ自分の気持ちは逃げないのだから、今すぐに答えを出そうとしなくてもいいだろう。
ふ、と息をつき、顎を上げ視線を合わせて、彼女はいつものようにクールに言い放った。
「――了解だ、シュバルツ」
口の端を持ち上げて――――にやり、と笑ってみたら、シュバルツは少し目を見開いて、やるじゃないかと面白そうに笑ってみせた。
-
「な、」
「何?」
思わず上げてしまった声に、舞惟がローファーを片手に不思議そうな顔で振り返った。はっと我に返り、紅葉は慌てて『それ』をひっぺがして左手に隠した。
「う、ううん、何でもない、えと――」
目線が泳ぐ。本当に何でもなかったことにして、このまま帰ってしまおうかと一瞬思った。冷や汗をかきそうな左手の中で、その銀色が心臓の音量に比例してぬるくなっていく。天秤がガタンと傾いた。全然嬉しくない方に。
「……ごめん舞惟、私ちょっと用事を思い出しちゃって――あの、ごめん、本当に悪いんだけど……先に帰ってて?」
「え? いや、いいけど、でも」
「本当にごめん――また明日!」
「ま、また明日ね」
戸惑う舞惟に内心でも謝りながら、引き止められてしまう前にと紅葉はぱっと踵を返した。脇目もふられずに近くの空き教室に駈込んで、息を整えないまま握りしめた手を開く。
紅葉の下駄箱のロッカーの扉にテープでぺたりと貼り付けてあったのは、ごくありふれた形の鍵だった。そしてその鍵にぶら下がってゆらゆらと揺れているのは、紅葉にとってはもはや見慣れる程に見慣れた人形、ハズレ君――を、知っている大きさよりも更に小さくしたようなストラップである。こんなものが堂々と自分のロッカーに晒されていたのかと、紅葉は頭痛を覚えた。下駄箱の中を開けられなかっただけマシだと思えればいいのかもしれないが、正直こんな中途半端なプライバシーの尊重をされてもなんのフォローにもならない。いっそラブレターのように中に放り込んでくれればよかったものを。心象的には不幸の手紙だが。
「――ちょっと!」
紅葉はハズレ君ストラップに向かって尖った声を出した。が、そのストラップは無言のままぴくりとも動かず、瞬きさえもしない。紅葉はちょっと困惑した。おかしい。いや、普通、人形が動いたり瞬きしたり、あまつさえ喋って跳ね回る方がおかしいのだけれど。
「ちょ、ちょっと……?」
指先でちょんちょんとつついてみる。しかし小さなハズレ君は、やはり口を開かず、ごく自然な振り子の法則でぷらぷらと揺れただけだ。本当にただのストラップのようである。
「な、なんなの……?」
当惑しながら戸惑って、それからふと銀色の鍵の存在を思い出した。ここにいるということだろうか。
「でも、一体どこの鍵って……」
言いかけて、ふともう一度小さなハズレ君人形に視線を戻した。ハズレ君人形は、よく見れば体のあちこちに包帯を巻かれているという痛々しい姿をしていた。ご丁寧におでこには冷えピタを貼っている。どうやら具合が悪い、ということらしい。体調が優れない時にいくところ。それは多分――
「……保健室?」
『ご名答!』と大袈裟な調子で鮮やかに笑う声が、いないくせにいとも簡単に想像出来たことが気に入らなくて、「……私が頭痛薬をもらいたいわよ」と小さなハズレ君人形を軽く弾いた。
-
〝そういう事はとっとといえよ〟
むす、とした表情は変わる様子がないので、派手な色彩の人形は不安定な首をかくかく揺らすと、ふむんと呟き腕を組んだ。
「すこぶる機嫌が悪そうだなあ」
「……うるさいわね」
やけに仏頂面だな。と、糸を操りながら思う。
彼女が機嫌を悪くするのはいつも通りなのだが(勿論彼はその原因をよく分かっているが改める気など更々ない)、今はまだ顔を合わせたばかりで会話らしい会話を交わしていない。
それによくよく見れば、怒っているというよりも――
「……」
僅かに早い呼吸。勇ましい言葉のわりに声は少しよれて、心なしか視線もふらふらと揺れているような。
充血した目を潤ませたまま、背筋を伸ばしてふつうを装おうとしているのは、確かにいじらしいといえなくもないけれど。
彼は体をもたれていた壁から離すと、上着に手を入れたまま紅葉の前に立った。
屈んだとき落ちた影に少女は目を見開いて、しかし彼は特に気にとめる風もなく自分を見上げたその顔に額をつける。
「……!」
彼女は顔をあかくして、口を動かすが声にはならず、だから術者はそれに気づくことはなかった。
目を細めた人形が、だろうな、と、ため息混じりに頷く。
「熱がある」
随分あついぞと呆れたハズレ君に、少女は誰の所為だと怒鳴ろうとして、けれどそれを吐き出す前に、彼女はくらりとした眩暈に押されて目を閉じた。
ふら、とその華奢な体がバランスを失って――腕の中に収まる。代わりに人形の方がだらんと地面に伸びた。
仕舞ったままだったもう片方の手も上着から出して、ひょい、と無造作に抱え上げる。ちらりと人形に視線を向けて、それから。
「――――」
誰にも聞こえない声で呟いた独り言に、後ろの人形が嗤った気がして、彼は小さく舌打ちをした。
-
〝よぉ、――――〟
喧騒の中、
いつかの誰かに呼ばれた気がして、紅葉は顔を上げて足を止めた。
けれどどうして顔を上げたのかは思い出せずに、少し眉をひそめて、先ほどよりも少し緩い歩調でまた歩きだした。
「探し物は見つかったのか?」
そう問われて押し黙ったのは、探し物、という部分に思い当たることがまるでなかったからだった。答え方に迷っていると、舞阪は紅葉の逡巡を別の意味に受け取ったらしく、「まあ、その内見つかるだろ」と大して興味のない顔で続けて話を畳んだ。舞阪が紅葉の知らないことを勝手に独り合点してしまうのはしばしばあるので、紅葉は諦めて目の前の紅茶を一口飲んだ。からん、と中の氷の崩れる音がして、紅葉はなんとなく、使いそびれてしまった薄いレモンに目を落とした。
-
赤いものがオキシジェンに向かって勢いよく突っ込んできた。ドンと無遠慮にぶつかって、オキシジェンがふらりと揺れる。よろけると言うには可愛げがないなと思いながら、スリを仕掛けた子どもの方も見れば、そちらはきちんと逃走の準備ができていたので、シンプルハートは少し身を引いてやった。
「……」
「……」
「……」
「……わかった。取り上げてこよう」
-
「いや、マジで呼んでないからね」
「レインは精神分析タイプで、オキシジェンは情報分析タイプなんだろう? 戦闘タイプがいなけりゃ心もとないだろうが」
「もたなくない任務だから二人なんだけど?」
「備えあれば憂いなしって日本語の諺を知らんのか?」
こいつどうすんのよ、という顔で朱巳はオキシジェンに視線を投げる。オキシジェンは微かにため息をついた。
「……仕方がない。僕は構わない….…好きにすればいい」
「ふふん。話が早いな、オキシジェンの方は。なあ?」
「ていうか、あんたこんなところでフラフラしていていいのかしら? 任務はどうしたのよ」
「なんだそんなことか。まったく問題ない。今俺はフリーだから」
なんでこいつ野放しにしてんのよ、という顔で朱巳がオキシジェンを見た。オキシジェンは微かに首を振った。フリーな訳がない。一体どういう期待しているのか、フォルテッシモの方は酷く機嫌がよさそうだった。
-
軋む体に血が流れ始める。空っぽの胸腔が脈打って、さざめく心臓の音を聴く。遠ざかりすぎた温もりを、脳の錆びついた部分が思い出す。あまりにも鮮烈な認識は、しかし途方もなく穏やかに与えられて、涸れ切った土が雨を注がれたなら、きっとこんな気持ちになるのだろうと思った。
崩れかけた体はまた熱を取り戻した。世界の続きは遠い未来の出来事になって、人々は問題なく息をする。オキシジェンは浸されるようなぬるい温度に、奇妙な安らぎを感じる。先送りされた決断に、世界が平穏を取り戻す。
全てを監視する役割は、まだ引き渡す必要がないらしい。自分はまだ始まったばかりなのだから。まだ?また?自分は何を先送りしたのだろう。夢から覚めたように澄んだ思考と、重たく残る微睡むような感覚。何かを忘れているような。断てない糸を見過ごしているような。ぬるい温度が気持ちよくて、膜を張ったように甘く気だるい。
一つ、二つ、三つ。大事な糸が切れていく。
甘やかな熱に溺れる自分は、きっとそれを見落として、そしていつかの遠い未来に、世界が閉じる様を視る。
「……いいや」
ふ、とオキシジェンは微笑んだ。そんな結末はありえない。
僕が熱に浮かされようが、長い夢の中で延々と微睡み続けようが、どこかの亞空へ吹っ飛ばされて底無しの虚空に誘惑されようが、あの冷えた手はそんな生ぬるいものを許しはしない。
途切れた糸など構いもせずに、道理も摂理も無視をして、馬鹿馬鹿しいほど呆気なく――運命の元へと辿り着いて。
僕が繋ぎ損ねた糸と糸を、きっとおまえが繋いでいる。
そうしてこのぬるま湯の中に、冷え切った手が差し伸べられる。
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