シンデレラとガラスの靴(零+零+亜季)
「相応しかっただろう? 私の名前には」
彼は穏やかな調子でそう言った。少し肩を竦めて。
「零に元通り、というね。――結局のところ、シンデレラの魔法が切れてしまったというだけなんだ、これは」
濡れたような緑と、ひっきりなしに注ぐ光。それらを眩しいと感じているのかよくわからないまま、私は――僕は、反射のように目を細めた。彼は手に缶を持っている。どうやらグレープフルーツのジュースらしい。僕の手にはない。横に赤い自動販売機があって、ポケットに手を入れてみたが小銭は入っていなかった。彼は角の滑らかな銀色の防護柵に軽く腰かけている。公園の入り口にあるようなものに見えたが、ここが公園に続いているのかはよくわからない。彼の足元には影があって、僕の足元にもあった。影の濃さと木漏れ日のコントラストを見て、もう一度彼の手元のジュースに目をやったけれど、差し出してはくれなかった。ため息をつく。
「魔法を解いてしまったのはあなたでしょう、東夷さん。だから僕が残ってしまったんでしょう?」
「そう、ガラスの靴が残ってしまった。〝ステップを踏んだ瞬間に、ヒビが入って砕け散る――〟そういったはずなのに、君はガラスの靴になってしまったわけだ」
苦笑するような響きで言い、彼は手元の缶に目を落とした。つられるようにそれを眺め、夢の中で食べ物を口にしてはいけない、という決まりをなんとなく思い出す。
「ええ、僕は踊り始めました。でもまだ砕けてはいませんよ。その点だけは、あなたは間違ってしまいましたね。零元東夷らしくもない」
「今は君が零元東夷だ。しかし、そうだな、その通りだ。私の予測は外れたな。もしかしたら、踊り続けられるかもしれない。ガラスの靴は砕けないかもしれない。零元東夷の可能性は、私がいなくなっても続いていくかもしれない――」
彼が缶を開ける。僕を見て、乾杯をするように軽く掲げ、そして言う。
「少しばかり、悔しいような気もするがね。だがまあ、退場した者に出来るのは、せめて砕け散ってしまう前に、王子様に迎えに来てもらえるよう祈ることくらいか」
いつかのようにニヤリと笑って、彼はそのグレープフルーツジュースに口を付け、さも美味そうに喉を鳴らした。やはり分けてはもらえないらしい。世界はいよいよ光が強くなる。顔を顰めるように目を眇める。
「あいつに王子様役は無理ですよ。第一あっちもガラスの靴だ。僕と違って、いつ砕けるかわかりゃしないヒヤヒヤしそうなヤツですが」
「おや、そんなに危なっかしいのか。だったら黙って待ってはいられないか。砕けてしまう前に、迎えに行ってしまったらどうだい?」
眩しい、と思ったらドアが開いていた。光がまともに顔に当たって眉を寄せる。呻き声を漏らすと、原因の方が気付いて「あ」と声を上げた。
「東夷さん、グレープフルーツジュース、ありませんでしたよ。オレンジのは貰ってきましたけど」
「……どこにいっても飲めないな」
「いや、私に文句を言われても……そんなに飲みたいなら自分で行けばいいんじゃないですか」
はあ、と息を吐いた。わかっていますよ、と夢の余韻に小さくぼやけば、危なっかしい方のガラスの靴が目を丸くした。
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