三浦陽介は飛び出さない(シャークズ)
――葛羽紅葉さんですね。以前に一緒に仕事をしたことがあるんですけど、その時に、すごく感銘を……いや、違うな。なんていうか、頭をガツンと殴られたみたいな衝撃があって。で――とにかく、このままじゃ駄目だ、って思うようになって、仕事への意識とか、それこそ生き方みたいなものも全然変わって。――ちゃんと彼女に胸を張って、自分の話が出来るような人間になりたいなあって思うようになったんですよね。それからずっと憧れの人です。
そのときの仕事ですか? テレビ番組で、『だぶるトップ』っていう討論形式の――
――『CANDY』うらっつデビュー五周年記念インタビュー〝憧れの人は?〟より抜粋
「……それで、デビュー五周年記念の方は、改めてあなたの自己紹介をするって特集を組むことになるんだけど……やっぱりイメージを大事したいし、インタビュー部分は演出を入れた方が良いわよね?」
その大して重要ではない彼女の問いに答えが返るまで、いつもよりも間があって、マネージャーはあれ? と思って手帳から顔を上げた。彼ならば、非の打ち所ない柔らかな笑顔を添えて、「そうですね」だとか「わかりました」だとか答えているはずだった。赤いペンは既に手帳に〝演出あり〟と答えを出して、もう一つの仕事の方に意識を向けている。もしかして聞き逃されたかしら、と思い、「陽介?」と彼の名前を呼ぼうとして、顔を上げた彼と目が合った。彼が何かを小さく呟いた気配と、そして。
「――いえ、それは止めておきます」
うんうんそうよね、と頷きかけて、はたと止まる。聞き違えたかと思って、マネージャーは彼を見る。
彼はやはり非の打ち所ない、柔らかな笑みを浮かべていた。
*
あの時の三浦陽介は、マネージャーに頷きかけて、「もちろんわかっています」と微笑んでみせた。
それは『だぶるトップ』という名前の、ゴールデンタイムを飾る改編期特番の仕事だった。
『だぶるトップ』は対決形式で進行する番組で、二人の出演者が向かい合い、互いの話をするというトークスタイルになっていた。勝敗は、どちらがより説得力があったと思ったか、という観客からの投票数で決められる。勝った側は次のトークに臨むことができ、負けた側は退場というお決まりの流れで、一度対話が始まったら、他の出演者が賑やかにツッコミを入れるようなワイプ画面は出さないというプロデューサーの方針により(なんでもシリアスな雰囲気を出したいとかなんとか)、トークに勝ち抜いていかない限り、画面に映れる時間はほぼない。そして大概の番組と同じように、〝何々事務所の誰それを勝ち上がらせる〟といった仕込みも当然あって、たった一分、三十秒でも地上波に出られれば御の字、といった芸能人を除き、拘束時間の割に実入りが少ない、有り体に言って〝美味しくない〟仕事だというのが、出演者からの『だぶるトップ』へのもっぱらの評価になっていた。
その〝何々事務所の誰それ〟というのが、あの時の『だぶるトップ』の三浦陽介の役割だった。それなりの知名度と人気が期待出来る〝三浦陽介〟というキャラクターが、長く画面に映るのは番組側としては都合がよく、そして事務所側としても、三浦陽介がこの番組に出演して、決勝戦まで勝ち上がるという姿を視聴者に見せるということは都合がよかった。
何故都合がいいかというと――それは、
「今の僕に足りないものが、〝説得力〟だからですよね。若くてキャリアも何もないようなアイドルに、報道番組なんて任せられないって思う人は、きっと多いですもんね。だからこの仕事で、きちんと説得力のある話も出来るんだってところを視聴者の方達に見せて、イメージアップに繋げようってことでしょう。失敗できないから、台本も演出家も必要――もちろんわかってます。イヤホンの声を聞きながら、っていうのはちょっと難しそうですけど、ちゃんと練習しますから大丈夫ですよ」
そう悪戯っぽい顔で、正しく微笑んでみせることは、あの時の陽介にとって、酷く簡単なことだった。そしてそうやって正しく答えた陽介に、マネージャーが模範解答をした優等生、もしくは聞き分けのいい子どもを相手にしたときのような顔で、陽介の聡明さを――要は身の程を弁えていることを、とても大袈裟に褒めたとしても、そのどうしようもない苦さを、ただ柔らかな微笑みとして浮かべてみせることにも、とうに慣れ切っていた。
〝アイドルだから〟〝アイドルにしては〟〝アイドルのくせに〟――何をやっても貼り付いてくる枕詞があって、その度に、自分に実力がないからだ、実績がないからだ、と言い聞かせていた時期がある。実力が足りないなら実力を付ければいい。実績が足りないなら実績を積めばいい。そうすればいずれは皆から認められると――アイドルという肩書きを疎ましく思わなくても良くなると、そう期待してしまっていた時期がある。その余計なプライドは、自分が若いアイドルじゃなければ、もっと年上の俳優だったら、大御所と呼ばれるような人物とコネクションがあればと、そんな風に考えずにはいられない瞬間を味わう度に丁寧に折られて、そうしてやっと陽介は、自分が欲しがっているものは、他人が与えてくれなければ手に入れることの出来ない類のものなのだと思い直した。
他人が三浦陽介に着せたいと思うイメージを、着せたいと思うタイミングで、きちんと着こなすようにすれば、彼を取り巻く世界は驚くほどスムーズに回るようになった。演出や台本の形で与えられる、彼が着こなしたイメージたちは、彼からすれば〝本当の〟実力だとか実績だとかからは程遠いくらいにけばけばしく飾り立てられたものだったけれど、それらを嘘だと指差す者は誰もおらず、ああ、上手くやるってこういうことか、と、彼は少し諦めて、世界を少し舐めることにした。
そうやって世界をしばらく流して、そして――あの時、彼は初めて指を差された。
「さっき、あなたが言っていたことと違ってませんか、それ。みんな根拠を気にしなさ過ぎだから、考えた方がいいって言ってましたよね」
目の前の少女が微笑んだように見えて、ふわりと解けるように浮かんだ、その柔らかな温度に、陽介はつい目を奪われた。奪われてしまったのが良くなかった。ついと手元に目を落として、瞬きを一つし、そしてもう一度こちらを見た彼女の、凛と澄んだ射抜くような視線を、陽介はまともに見てしまった。
彼女は葛羽紅葉という、彼よりもほんの少し年下の女の子だった。最近とある騒動で話題になり、彼の対戦相手の代役として選ばれた。元々彼と戦うはずだった相手はハリウッド俳優で、そんなスターと自分では、どうやったってレベルの違いを誤魔化すことは出来そうになかったから、急遽件のハリウッド俳優が来られなくなり、代役に彼女が選ばれたと聞いて、彼は内心ほっとしていた。危ないことなどなにもないと思った。
それが、今――背筋に氷の柱を通された。
「……っ」
バレる、と反射的に思った。自分の言葉が嘘だとバレて、今までの全部が正解に足るものではなくなるような。がらりと足場が崩れる感触と、いや、本当は自分には足場なんて何もないのだ、という、酷くはっきりとした認識。
自分にあるのはイメージだけだ、と陽介は知っている。なんとなくいい人そう、優しそう、信じられそう、彼にまとわりついた、何の根拠もないふわふわとしたイメージだけが、彼をここまで連れてきた。説得力は実績と信頼でできているならば、自分は最初から、そのどちらも持っていない。いないから、与えてもらわなければならなかった。本当にそれを持っている人から、自分にもそれがあると、保証してもらわなければならなかった。保証してもらって、そして―これからはその保証を掲げて、それをちゃんと持っていますよと、そういうフリをし続けなければならないはずだった。
向かい合わせのように映る、しかし本当は目など合わないテーブルの向こうで、自分に対峙する少女が正しい顔をして座っている。息を呑む。保証がもらえなくなってしまう。
凛とした声に、態度に、瞳に――彼女に。
『間違い』だと見做されることは、それはとても――
「いや、それとこれとは――」
『――――そこまで』
落ち着き払った演出家の声が、陽介の言葉を遮った。それはまるで、こういうことは慣れ切っているとでもいうかのような、完璧なタイミングの制止だった。自分が道路に飛び出して、その首根っこを摑まれて止められた子どもになったような気分と、その鼻先をトラックが盛大な音を立てて走り過ぎたような錯覚。〝やれやれ〟とか〝仕方ないな〟に似た色のため息がイヤホン越しに降り、そして何事もなかったように、滑らかにまた言葉を始め、陽介は、はっと我に返って慌てて彼の声を追う。
『まあ、そうだね。矛盾してるかな』。イヤホンの向こうの声が、陽介が否定しなければと思った彼女の言葉を、ごくあっさりと肯定する。そんな、だってこれは対決で、どっちが正しいかを決めるためのもので、彼女が正しければ僕は正しくなくなってしまうのだから、勝つためには、信じられるという保証をもらうためには、信じてもらうためには、だから――と、そこで陽介は、正しい顔をして座っていると、ずっとそう思っていた彼女の、その表情に気付いて、え、と戸惑った。
彼女は別に得意げでも、勝った、みたいな顔もしていなかった。実績や信頼や保証がどうこう、なんて考えもしない顔で、ただ陽介の、陽介のなぞる演出家の言葉を聞いていた。最後まで聞いて、少し首を傾げて、『どういうことでしょうか』と尋ねてくる。イヤホン向こうの彼も、当然のように言葉を返す。どちらもどちらが正しいのかなんてどうでもよさそうに。
「え、えと――」
狼狽える陽介を、蚊帳の外で置いてけぼりにしたまま、二人の会話は滑らかにどこかへと進んでいく。彼女は――彼女と彼は、一体何を話しているんだろうと、陽介はここにきて急にわからなくなった。彼らはお互いに、説得を――自分の言葉を信じてもらおうとしているのだろうか、本当に?
なんだかまるで、そんなことは最初から心配していないみたいな話し方をしている。これじゃあ、相手が何を考えているのかしかわからないのに、と、陽介は混乱する。
「――三浦さん」
自分の名前を呼ばれて意識が引き戻された。イヤホンの声をなぞることに必死で、会話の内容がまともに頭に入っておらず、前後の文脈がわからなかった。ただ自分が呼ばれたのは確かなようなので、どうにか彼女の方に視線を向ければ、彼女はちょっとびっくりするくらいにやる気のない顔をしていた。
「三浦さんはそういうことあったんですか。誰かと争って、勝ち取ったときのこととか。オーディションみたいな」
「え? 俺?」
戸惑ったのは、彼女の問いが、急に自分にも答えられるものになったからだ。誰かと争って、勝ち取って、オーディション? それはまあ、話せることはいくらでもあるけれど――。
「そうですよ、私の話はもうこのくらいでいいでしょ。三浦さんもエピソード披露してくださいよ」
なんだか途端に投げやりな調子で、彼女の方が肩を竦めた。そうか、そういえばこれは僕も話さないといけないのか。どのエピソードを話せばいいんだろう、と陽介はしばし指示を待ち――イヤホンの向こうに沈黙が落ちている。
おいおい、あんたのことなんか俺が知る訳ないだろう、と手酷く呆れられているような長い間と、信号はとっくに青になっているのに、それに気付かずに横断歩道で立ち尽くしていたことを指摘されたような、なんだか酷く――格好悪いような気分。
ああ、僕の話は僕がしないといけないのか、と、至極当然のことを、陽介は今更思い出す。
「あ、あー、えっと、そうですね、これは僕の好きな作品が、実写の映画を撮るって決まったときの話なんですけど――」
話し始めた僕に、紅葉さんが目を向ける。
その時何故だか、初めてちゃんと目が合っている気がして、そして多分それはどうでもいいことなのだけれど、彼女は僕のことを〝三浦さん〟って呼ぶんだな、と、とても重大なことを、やっと見つけられたような気分で思った。
*
「〝いや、それとこれとは――〟……」
口の中でそう転がしてみる。あの時、そう口走らせたあの感情は、〝怖い〟という気持ちに似ていたかもしれない、と今は思う。正しくないことがバレてしまう、と思い、もう誰にも信じてもらえないという予感が恐ろしくて、嘘だと知りながら、嘘じゃないと誤魔化そうとした。イヤホンの声が遮ったあの先に、待っていたものは何だったんだろう。道路に飛び出しかけた感覚と、鼻先を通り過ぎたトラック。
いつもよりも少し長い時間、答えを待たせている陽介に、マネージャーが訝しげな顔をしている。そろそろデビューから五周年を迎える陽介を、改めて皆に紹介するという特集が組まれるらしい。新しく用意されるイメージを、着るか着ないかという質問。青信号になった横断歩道で、背中を蹴飛ばされるような気配。
「――いえ、それは止めておきます。やっぱり、僕の話は僕がした方がわかりやすいと思いますし」
まだ少し動揺した様子のマネージャーから伝えられた、もう一つの仕事の方は、報道番組からの正式なオファーだった。
なんでも、例の番組に出ていた陽介の、いつもの笑顔とは打って変わった、眉間に皺を寄せた真剣な顔が、物珍しくて決め手になったらしい。「あの時の演出家、中々腕が良かったわよね」とマネージャーが評したので、陽介は今度こそちゃんと苦笑してみせた。
〝He doesn’t run out〟closed.
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