DIS ASTER(シャークズ)

 誰かに名前を呼ばれた、途端に歓声と騒然のど真ん中に引っ張り出された。葛羽紅葉さんですよね、ファンなんです、感動しました、握手してください、ぐるりと周りを囲まれて逃げ場がない。私の知らない、私のことを知っている人達。目の前の空気が薄くなる感覚。にこにこした顔で好意を示されて、もうどうすればいいか分からない。

 そう、好意なのだった。非難ではない、悪意ではない、糾弾ではない、私は誰にも責め立てられていない。彼らは私をバッシングするマスコミでも、レンズの外側の世間でもない。それらの全ては出過ぎた冗談を片付けるように呆気なく取り払われて、その代わりに私は好意が苦痛に、称賛が雑音になる瞬間を初めて知った。とても良いことだと思っていたことが、どうして悪いことになってしまうのか。そんなことは知りたくもないしわかりたくもなかったのに、考えなければ窒息しそうなところまで引きずり出されて、手酷い理不尽を押し付けられた気分でいたら――その元凶と目が合った。

 通りの向こう側で、そいつは車を背もたれに立っていた。


「――っ」

 ――バタン! と車のドアが鼻先で閉められて、紅葉はドアノブを掴んで思い切り引っ張った。開かない。ロックが自動でかかる仕様らしい。閉じた窓のすぐ向こうにいる男の横顔は当然しらりとすましきっていて、紅葉がガラスをぶん殴ってやろうと拳を振りかぶったところで、後部座席の方の窓がするすると下がってきた。握り締めた手を振り上げたままそちらを向く。

「よぉクズっち、赤信号ぎりぎりで強引に横断歩道を渡ろうとするのは感心出来ないぜ」

「なんで閉めるのよ!」

「君こそなんで吾輩の方に来るんだ? これって正直、全然巻き込まれたいことではないよな」

「あんたのせいでこうなってるんでしょうが! 私が!」

「君がちやほやされるのは吾輩のせいなのかあ? やれやれ」

 お馴染みのシルエットが軽い調子で肩を竦め、心底の〝やれやれ〟を言ってのけた。同時に後ろのドアが開く。苛立ちと安堵がないまぜになって、どちらを取るか一瞬迷ってから手を下ろす。ほとんど転ぶようにして車に乗り込みかけ――ぐ、と堪え、ふうっ、と息を吸ってから、ぱっと振り返って、通りの向こう側に会釈をした。そして今度こそ車の中に転がり込む。両手を後部座席についたまま、はああああ、と大きく息を吐けば、ハズレ君が大して興味のない顔で尋ねてきた。

「どこまで送って欲しいって? それとも適当に下ろしていいのか? 流石にドライブするよーな時間はないんだけど」

「ドライブされる気だってないわよ! それに送って欲しいなんて誰も――」

 頼んでない、と。言い返しかけ、窓の外が目に入って言葉が途切れた。通りの向こう側、赤い信号に足止めをされた人の塊が歩道に薄く広がって、こちらに顔を向けているのが見える。いくつかの腕がぱらぱらと上がっていて、車に、紅葉に向かって手を振っている。何故だか誰も立ち去りそうにはない――空気が薄くなる感覚を思い出しかけて息を吸い、それから少し眉を寄せる。ややばつの悪いような気持ち。

「……送ってくれるの」

「通り道ならね」

「……出来れば、テレビ局まで、とか」

「ほいほい。では発進。左折~」

 巫山戯た掛け声をかけながら、ハズレ君が交通整理みたいに丸い手をぴっと左に向けた。車が滑らかに左に曲がって、人だかりの背景を二秒で断ち切る。紅葉はバックミラー越しに運転手を見る。もちろん冷めたポーカーフェイスをしている。いつもながらテンションの温度差が激しすぎてつっこむ気にもならない。

「なんか今、火事のときの非常口みたいな入り方だったぜ」

「うっさいわね」

「そうそう、知ってるか? 建築基準法施行令の第百十八条では、劇場や映画館や公会堂における客席からの出口の扉は内開きにしてはならない、って定めてるんだ。これは非常時にきちんと扉を開けて避難出来るように、ってのが目的で、どういうことかっつーと、〝一見押して開けるように見えるけれど、実は引いて開ける扉〟の前で人が折り重なって死んでいた、みたいな事例を出さないようにする為なんだな。押して駄目なら引いてみろって言うが、しかし火事なんかでパニックになってしまうとそういう判断が上手く出来なくなってしまって、必死でドアを押し開けようとしてしまい、そうこうしてる内に煙に巻かれてしまう、というようなことが往々にしてあるんだよ。その人間が正しいと思っている行動を、反射的にしてしまう――有名な話だからどっかで聞いたことあるだろ?」

「あー、そういえば、防災訓練とかで聞いたことがあるような……」

「何でこういったことが起こるんだと思う?」

「え? それは、だから……助かりたいから?」

「より正確にいうと、助かる見込みがあると信じられているからだ。パニックというのは、正しい情報を得られない状況に陥った人々が冷静な判断力を失ったときに発生するんだが、逆に生き残る可能性がほぼ無いと思われた場合には起こりにくい。完全に逃げ場がない、と思うような閉じ切った空間においては、むしろ人間は恐慌状態にはならないんだ。飛行機とか潜水艦とか宇宙船とかな」

「その言い方だとなんか、助かるって思わない方が良いって言ってるように聞こえるけど」

「おいおい、この場合どちらのパターンも結果は同じなんだから、良いも悪いもある訳ないだろ」

「…………なんっかムカつくわね。だったら、じゃあどうしろっつーのよ」

「それについては冷静な判断力を失わないように気を付ける、としか言いようがないが、そうだな。さっきも言った通り、人々がパニックに陥る原因としては、一つはまず助かる見込みがあると信じられていることだ。それから、差し迫った脅威を現実のものとして実感していること。これの反対が正常性バイアスってやつで、これは目の前の異常事態に対して平常心を保とうとすること、つまりは鈍感になろうとすることなんだが、ただまあこれが過剰に作用すると必要以上に落ち着きすぎてしまって、今すぐ避難しなけりゃ命に関わるのに動画を撮りながら『マジヤベェ~』とか言ったり記念撮影に興じて『イエーイ!』とかしてしまったりする」

「ああ……」

「んで、よくパニック映画とかでフォーカスされているのが〝他の脱出者との競争に勝たなければ生き残れないかもしれない〟という危機感が周りに伝染してしまって、コミュニケーションが機能せずに全体の状況を正しく把握することが出来なくなってしまう、という状態で、こうなると個々が先を争ってその場から逃れようとして被災者同士で衝突し、最悪死傷者が出ちまったりする。これらはいずれも実際の状況がそのようなものであるかどうかとはあんまり関係なくて、人々の主観的な思い込みだけで引き起こされている可能性も大いにあるんで注意が必要だな。もちろん、他のヤツらを全員押しのけて自分だけ助かろうとしないと本当に助かれない状況もあるだろうが」

 長々と言って、ハズレ君は人差し指を立てるように、丸い右手を上げると左右に揺らしてみせる。

「冷静な判断、ってのはそういうことだ。これらの条件が揃うとパニックが発生する可能性はぶち上がるが、逆にこの条件の幾つかを成り立たなくすることが出来れば、パニックは防げるという訳だな」

「ううん――なんとなくは分かったけど、でも〝防げるという訳だ〟とか簡単に言ってるけど、それってかなり難しくない?」

「だから君も言っていた通り、防災訓練なんかが定期的に行われているんだよ。充分に訓練された集団、個人でもいいが、そいつらは危機的状況の中でも速やかに自分の役割を果たそうとするから、全員が全員同じ行動に走ることがない。要はパニックになる条件を先に潰している訳だ。各々で役割分担をしておけば、他の脱出者との競争は発生しないからな。あとはそうだな、訓練以外で挙げるとするならば、視認性の高い安全経路情報の提示だとか、他者からの誘導もパニックを防ぐのには役立つかな。ま、何が言いたいかっていうと、突然そんな場面に放り込まれて、冷静に正しい判断を下せるヤツというのは極々稀だってことだよ。君だって現に、随分とパニックになっていたみたいだし」

「いや、あれは……ただ運が悪かっただけで。ああいうのとそういう、火事とか地震みたいなのを一緒にされても」

「そうかな? 脅威を感じるという点では、どっちも大して違いはないんじゃないのか。それに災害ってのは英語で〝disaster〟――元々の語源が〝星に見放されること〟って意味だから、つまりは〝滅茶苦茶に運が悪い〟の究極形ってことだろ?」

「…………だから私、女子高校生なんだけど」

「おいおいおい、大学受験は大丈夫かあ? これって確か英検だと準二級程度の英単語で、高校二年生だったら知ってて全然おかしくないはずだぜ」

 ひょひょひょひょひょ、と笑いまで被せた完璧な貶し方に文句を言おうと口を開きかけた、と同時にぱっ、と自動でドアが開いた。「ほい、到着。どうぞ」と、小さな人形がすいと手を外へと示す。相変わらず運転だけはやたらと丁寧だ。怒鳴るのも送ってもらったことへのお礼もタイミングも逃してしまってちょっと逡巡し、けれど結局どちらも面倒になってため息をついた。

「……はいはい」

 車から出ようとしたら、「ああ、そうそう、ちょっと待って」と人形が思い出したように紅葉を引き止めて、ぽむ、と手を叩いた。ダッシュボードの方にぴょんと飛び、グローブボックスをぱこんと開けて、頭を――というかほとんど身体全部を突っ込んで何やら探る。そのまま少しごそごそして、ひょいと身体を起こして、見つけ出したらしいそれを、ぽい、と紅葉に向かって投げてきた。わっ、と思わず両手を前に出してしまって、投げられたそれを受け止める。ナイスキャッチ! とハズレ君が茶化す響きで褒めてみせる。

「……なにこれ?」

「何だろうな。ラッキーアイテムってところかな?」

「はあ?」

「っていうか、君が忘れてったんだろ?」

「え? ――うわ、あー、ああー……」

 首を傾げて眺めてから思い当たり、同時に声が渋くなった。投げられたのは帽子と眼鏡でマスクで、どれも確かに紅葉の忘れ物だった。経緯も使った理由もあまり思い出したくないが、ハズレ君の方はもちろん紅葉の複雑な思い出など慮らないので、ポップコーンみたいに中身のない軽やかさで言葉を続ける。

「つけて行ったらどうだ? そのまま歩いてたら、またすぐ見つかっちゃうかもしれないぜ。今日は運が悪いんだろ?」

「――――」

 目の眩む白いフラッシュを思い出す。〝脅威を感じるという点では――〟……大して、違いはないのだろうか。あの白い光から逃げ出したくて身に付けたこの眼鏡もマスクも、みっともない、と思ったのをもう一度? 自分で用意した変装道具を見下ろして押し黙ると、人形はわかったような顔で腕を組んで、うんうん、と頷いた。

「周囲は危険に満ちていると、確か前にも言っておいたな。すぐに向かい側の通りに行きたくなっても、信号が赤なら立ち止まる――脅威を感じるものに出来るだけ関わりたくない思うのは当然のことで、だから別に吾輩としちゃ、そーゆー空気の読み方に、これといって文句はないけどな」

 ――にこにこした顔で示される好意。歓声、称賛、呼ばれる名前。非難ではない、悪意ではない、糾弾ではない、私は誰にも責め立てられていないのに、どうしてこんなに息が苦しくなるのか。とても良いことだと思っていたことが、どうして悪いことになってしまうのか。そんなことは知りたくもないしわかりたくもないと紅葉は思う。確かに脅威を感じていて、それに出来るだけ関わりたくなくて、そして――はああああっ、と、紅葉はかなり大きめのため息を吐き出した。帽子も眼鏡もマスクも纏めて乱暴に鞄に突っ込んで、車を出て、振り返って、運転席の方をじとりと睨む。かなり不機嫌に。


「――いや、あんたが関わらせたんでしょうが? それにあんた、そんな風に耐え切れずに放り出して逃げたらもっと悲惨なことになるぜ、とか言ってたじゃん」

「そこはそれ、ほら、防災訓練ってことで?」

 小さな人形がひょひょひょと笑って引っ込んだ。もうそれで気が済んだ、みたいに車の扉はばたんと閉まり、もちろん今度は開かなかった。


〝DIS ASTER〟 closed.

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