#世はきみ3 身から出た錆(ギノ酸)
雑踏の中、頭二つ分高い後ろ姿が見えて眉を顰めた。足を引いて方向を変えかけて、それよりも一瞬早く、こちらを向いたそいつと目が合う。そのまま大股で早足にやってくる――舌打ちをひとつ。
「ギノルタ……! この辺りで猫を見かけなかったか? 黒と茶色のサビ猫というやつで、」
「知るか」
「そ、そうか……すまない、急に引き止めて」
「本当にな」
言い、踵を返しかけ、少し引っかかって振り返った。
「……猫?」
眉を顰めたまま投げかける。任務以外で言葉を交わすことなど全くないこいつが、切羽詰まった表情を隠しもせずに自分を引き止めて、あろうことか猫。
無言のまま説明を求めれば、カレイドスコープはいよいよ困り果てた顔をした。
「オキシジェンの飼い猫なんだ。首輪をつけていて……名前はロキというんだが」
*
かつ、かつ、かつ、と、上着に入れた通信端末のガラス面を、人差し指の爪先が単調な間隔で叩いている。
「……あのおー……何してんですか、ね?」
「……なんでもない」
立ち上がり、車下の暗がりから視線を外した。猫はいなかった。
サビ猫というのがよくわからなかったので、端末で調べて確かめた。サビ猫――その色合いが金属の錆に似ていることから『錆猫』、もしくは鼈甲のような柄から『トーティシェル・キャット』と呼ばれている。黒と茶色が不規則に混ざり合った毛色で、瞳の色は金。肉球は黒とピンクのまだら模様。
検索結果には、何をそんなに写す必要があるのか、似たような猫の写真がずらずらと並んだ。不可解さを圧して頭から順に眺め、なるほど、茶と黒の比率やら配置やらがいちいち違うらしいと一旦飲み込む。飲み込むが、今度は黒錆だ赤錆だ灰錆だと夥しい区分けがなされて嫌気が差した。まず最初の錆猫だの鼈甲猫だのの形容時点で既にピンと来ていない。そもそもくどくどと説明されたところで、端からサビ猫に興味がない。興味があるのは――、ギノルタは一度目を閉じた。というか、と、続く思考の方向を変える。というか、話を振ってきたのなら、それこそその猫が黒錆猫なのか赤錆猫なのか灰錆なのかパステル錆猫なのかキジ錆なのかブレイズなのか、きちんと言い置いておけ。
(猫なんて、車の下とかにいるものじゃないのか? 知らないが……)
後は物陰か、茂みか、屋根の上か。どうせ片手間だと、思い付く場所を通りがかる度に片端から視線を投げているが、今のところ当該猫どころか野良猫の一匹も見つからない。カーボンがいれば、と、ちらりと思った。彼ならば、適当なところに立たせておけば、猫の数十匹やそこら、ほどよく早々に集められただろうに。余計な手間を、と、ギノルタは、かつての部下の不在による不便さに――そのかつては、その体質の鬱陶しさに皮肉を投げていたことや、いなくなった理由と原因の方については更々顧みずに――なんとはなしに電線を見上げながら、やや顔を顰めた。
「あのー……ギノルタ?」
「なんだ」
「その、もしかしてなんですが、何か探しているんですか? 例えばええと、猫? とか」
バカンスなどと臆面なく宣うローバイのような者とは違って(といってもそういったことを言えるような機構の構成員は、ギノルタの知る範囲では彼しかいないが)、監察部門には休みがないから、大抵ギノルタは任務中だし、必要であれば部下も呼ぶ。当然今も任務の最中で、呼びつけた部下を自分の真後ろに歩かせている――立ち止まり、振り返って、真正面から見下ろす形で向き直ると、カチューシャが顔を引き攣らせて、わずかというには無理のある距離まで身を引いた。
ふう、と息を吐き、ギノルタは少し首を傾げて目を細める。
「おまえは探すのか? 猫を、任務中に」
「さ――――…がさないっすね、はい」
「なら何故そんなことを思いつく?」
「あの、いや……その……何かお探しのように見えたので……気になって……いや、勿論本当に猫を探していると思っていたわけではなく、他に私に思い付けるものがなくて……軽いジョークと言いますか……視線の位置が、なんか、ねこかなー? なんて……」
「そう気を散らしていられるほどの余裕が、任務中のおまえにあるのか? そんな暇が? それとも注意をしたかったのか。私が集中を欠いているように見えた、と」
「そ、ん、なまさか、そんなことは決して。ただ、探し物でしたら、私も何かお手伝いが出来るかと……」
「手元の仕事を放り出してか。たかだか猫の一匹や二匹にな……なるほど。猫探しというのは、おまえにとってそれほど魅力的らしい。もしくは任務を疎かにしたくなるほど、鑑定の仕事に不満がある、と。上申は必要か?」
「滅相もないです、与えられる任務に、心の底から満足してます――はい」
「ならやれ。言葉通りに。時間の無駄だ」
「はい……申し訳ありません……」
カチューシャを引き連れて数人の部下を尋問し、いくつかの処理をし、報告を任せて一人になった。歩いていると川通りに出て、半ば草に覆われた申し訳程度の歩道の中に、道路ブロックに腰掛けながら、猫を戯れつかせている子どもを見つける。あれはどういう仕組みなのかと目を眇めた途端に、猫は飛び上がるようにして逃げ出した。白色と黒色が一匹ずつ、どちらも。子どもが不満気な声を出す。
「あー、おじさん、何すんの」
「何もしていない。ああなるんだ、いつも。……君、この辺で、茶色と黒のまだら模様をした猫を見てないかな」
「サビ猫? 見てないよ。探してんの? あっちとかじゃない?」
子どもはぱっと振り返って、河川敷を指差した。高架下。それから、こちらを見上げて首を傾げる。
「いつも?」
嫌われてんの? 猫に。さあ。どうだろうな。気にしたことがない。え、気になんないの? 猫に好かれてたら嬉しくない? 別に、大して。変なの。おじさん、猫探してるんじゃないの? 嫌われてたら困るでしょ。探してるのは私じゃないよ。誰かの飼い猫ってこと? で、おじさんもそれを手伝ってて……ん? ってことは、やっぱおじさんも猫探してんじゃん。まだるっこしいなあ。君は仲が良さそうだったな。まあね。羨ましい? そうかもな。
聞かれるままに適当な言葉を返していくと、子どもは得意気に鼻を鳴らした。足元に転がっていたサッカーボールを拾い上げて小脇に抱え、ポケットに手を突っ込んで、ごそごそと探り、掴んだ何かをこちらに突き出してくる。
皺が寄って、やや形の崩れた、小さいスティック状のパッケージ。猫の写真が付いている。
「これは?」
「まぐろとチキンのミックスジュレ。好かれたいんでしょ? あげてみれば。喜ぶし、おじさん、すっげー困った顔してるから、ナサケゴコロ、ってやつだよ」
面倒だったので、ありがとう、とそのまま受け取った。じゃあね、頑張って、と背中を向けて、子どももどこかへ駆け出していく。見送らずに、スティックを上着に放り込むようにしてから、ギノルタもまた歩き出した。
*
川沿いに敷かれた階段を降り、河川敷に出て、そのまま高架下に足を向ける。
がらりと広く、思いの外見通しが良く、一目見れば何もないことがすぐに分かる。
立ち止まってコンクリートの柱にもたれた。
かつ、かつ、かつ、と、上着の中、通信端末のガラス面を、人差し指の爪先が単調な間隔で叩いている。
別に何も探していない――見つかったところでどうもしない。そもそも見つからない方がいいんじゃないのか、と、ギノルタはささくれ立つような気分で思う。何せ錆色の猫だ。酸素が金属と反応して起こる腐食。我が身にもたらされる悪い結果。身から出た錆やらラストベルトやら、嬉々として差し出すよりも、むしろ遠ざけたい類の意味ばかりを持つ色の。それをどうして、そんなに必死に探す必要が……平常の彼ならばくだらないと切って捨てる種類の、胡乱な格言や迷信を根拠に引いている、ということは、無論検討の枠に入れないまま、つらつらとあげつらっている。かつ、かつ、かつ、かつ、耳障りな音が延々と途切れない――にゃあ、と猫の声がした。
「――――!」
心臓が派手に跳ねたことに自分で当惑しながら、いやそれよりも、と視線を走らせた。するりと何か小さいものが視界の端を横切る。茶色と黒、あれは――
錆色だ。
「いや……ロキではない」
「――――は?」
指を鳴らす一秒前の形で、掲げた右手が固まった。色のない声。声の方向を振り返れば、いつの間にか、不思議なことなど何もないような顔をして立っている。状況を処理仕損なってただ茫然とすると、その男はギノルタの表情を認めて、僅かに首を横へ傾けた。会いたがっているというから出向いたのに、どうして狼狽えた顔をしているのかと思案するような表情に見える――思い過ごしであることは分かっているのに、どうして此処に、という疑問を呈する気力が消え失せた。
ぎこちない動きで掲げた右手を下ろし、上着の中に入れっぱなしの左手が、通信端末を強く握り込んでいたことに、初めて気付いて引き剥がす。全く望まない沈黙が落ち、耐え切れなくなったところで、視界の端に過った錆色を天啓のように思い出した。言葉を絞り出す。
「猫は……見つかりましたか」
「ああ……今は、病院にいる」
「病院?」
「予防接種……だ。どうも、注射が嫌だったらしい……」
予防接種、と頭の中で復唱して、一拍置いてああ、と思う。猫ウイルス性鼻気管炎、猫カリシウイルス感染症、猫汎白血球感染症、猫白血病ウイルス感染症、猫クラミジア感染症、猫免疫不全ウイルス感染症、そういった感染症を予防する為に、継続的な接種が必要だとかなんとか、確かそんなようなことが、読み流したページの一つに書かれていたか。詳しくはないからよく知らないが……、三種混合ワクチン、四種混合ワクチン、五種混合ワクチン、七種混合ワクチン、猫エイズワクチンと幾つか種類がある内の、一体どれを打ったのかと、礼儀として訊くべきか一瞬考え、軽い眩暈を覚えてやめる。
そんな礼儀があってたまるか。
「それは……そうですか。それで、その猫は」
誰が見つけたのか、と、問う前に言葉を切った。続きを促すような視線を向けられて、一瞬迷い、中途半端に途切れた台詞を繋ぎ直す。
「……どんな猫なのですか。その、ロキというのは」
すう、と目が細められる。見透かされるような透明な視線。見透かされる? 何をだ。質問を変えたことを? 興味のないことを問うたことを?
それが見透かされているならば、その非礼を詫びたほうがいいのだろうか。
妙な緊張と沈黙。それが、彼が答え方を考えているためのものなのか、別の種類のものなのか、読み取れる気などまるでしない。しないが、長いのか短いのか判断に迷う、曖昧な沈黙がいよいよ耐えられず、もう何でもいいから取り繕って、この不鮮明さを終わらせてしまおうかとギノルタは思う。見透かされているならば――
オキシジェンが一つ瞬きをした。
「……フライドチキン」
は、と声が出た。彼の主はほんの少しだけ首を傾けて、思い出すような口調で静かに言葉を続けた。フライドチキンが好きらしく、よく強請られる。ギノルタは反応が出来ない。
「……体に悪いものばかり欲しがるから、困っている……」
そう言って、彼はもう一度こちらに視線を向けた。流し目。好かれたいんでしょ? あげてみれば。喜ぶし……ぶわ、と血が噴き上がるような感覚。上手く隠したと思っていた問題を、全部目の前のテーブルに並べ立てられたような。
けれどギノルタには、その今や手酷く握り締められてぐしゃぐしゃになった、無惨な有様の小さなスティックを差し出す以外の選択肢は、もはや残されていないのだった。
〝You asked for it.〟closed.
▽ 後日談(桐とろさんが書いてくれました!!!!!!!!!!!!!!!!)
0コメント